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<この記事は常に先頭にくるようにしています>国家の経営が悪化して愈々(いよいよ)金繰りできなくなると大国は戦争を始めるだろう。火種が無いなら策謀をめぐらして戦争を創作するだろう。世界の趨勢というものは、おそらく、我々のような末端には一生涯知らされることのない『巨大な陰謀のようなもの』で動いているのだと思う。
戦争のきっかけをつくるのは容易い。悪徳巡査風に言えば、ポケットに大麻を入れてしまえばそいつを吊し上げられる。攻撃したければ手段かまわずでっちあげればいいことだ。やっかいなのは兵士となる民衆の士気を高揚することだ。義務感では人は戦わない。象徴的なものを破壊されるようなドラマがなければ民衆は敵国や敵国人を憎いとは思ってくれない。そこで壮大な謀略も必要になる。そうやって一個の戦争をみずから仕立てるのは一般倫理からすれば悪魔的だが、誰かがコントロールし目指しているところの世界の総体としては潮流の一部分に過ぎない。戦争は国家がボロ儲けするシステムなのは間違いない。経営戦略的に最大効果のイベントなのは間違いない。
しかしもちろん「秩序」は物も言わずにそこにあり、朝、私たちを会社へ駆り立てる。世界が『巨大な陰謀のようなもの』で動いているのは多分間違いないが、現実的には『巨大な陰謀のようなもの』の欠片(かけら)もない生活が日々繰り返されている。一方テレビやインターネットでは日毎煌びやかな(きらびやかな)消費生活を見せつけられる。ヒーローやヒロインの日常が庶民的であるかのような錯覚をおぼえながら、その錯覚を払拭できないまま、現実をやり過ごす。私たちの終着点とは、生後ずっと真面目に生き50年あるいは60年が経ったある日の朝、出勤途中のプラットフォームで、偶さか居合わせた眼前の女子高生に突如下半身を晒すというような無様さのなかに費える。私たちの人生で『仮想』とはきっとそういうカタチで顕われる。『仮想』とは、端的には、私たちの各々のフェティシズムが具現化してしまうかもしれないというリスクのことを言っている。あなたや私のプライベートなパソコンの中にある破廉恥なデータの数々を白日の下に晒すことができるのか、できないのか? それを『仮想』は言っている。漏洩しなければ私たちの性癖は一生誰にも知られないまま終わる。裸の写真や変態的性癖を私たちの表情やインターネット回線から読み取ることができるのか、できないのか? それを『仮想』と呼ぶのだと思う。
もうひとつの『仮想』とは、北の半島のような滅茶苦茶な国家が現実の敵国となる可能性を言う。すなわち、かの大国が次に戦争をやるとしたら北の半島になる、その可能性を言う。大国と北の半島が戦争状態になった場合、日本が戦場となる、その可能性を言う。
ところで、そのような『巨大な陰謀のようなもの』や『仮想』の危うさに従属しているようなものだという諦観が、私たちの時代の最終的な「言い訳」である。インターネットのコミュニティやブログで言い訳をしながら、コミュニケーションの先に金や女があるのかもしれないと期待しているが、得られるのは漏洩した誰かの痴態くらいで、実のあるものは何もない。そしてもちろん私たちが現実に立ち向かって生きていくのに陰謀も仮想もましてインターネットも何の関係もない。
- 2021/01/01(金) 20:58:48|
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<この記事は常に先頭にくるようにしています> 私達のごうまんさは、波乱万丈の生涯をおくった、あれやこれの人傑に感化された結果かもしれない、と思うことがある。
まだその犯罪が顕在化していなかった時分、例のカルト教団の教祖は、キリストが受けた弾圧を、そのまま自らの教団が受けている悪評になぞらえていた。
あのキリストも世間から変人あつかいされていたのである、よって、我々教団のやり方が世間から向かい風を浴びるのは当然だ、と、弁解していた。
そのような不遜なエクスキューズの小規模なものが私達のなかにもあって、ことある毎に心のなかで、自分が尊敬を寄せる有名な誰某をひきあいにして、あの人だって最後には理解してもらえたのだから、私のやったこともいずれは許容されるだろうと、希望的観測をしているのかもしれない。
自分というものは、なかなか見切れないものである。
昔からなんとなくそう感じていたが、この世のなかには、君には可能性があるだの、金の卵だのと、はやしたてる人間はあまたいても、おまえにはぜんぜん才能が無いのだからやめろと言ってくれる人間はひとりもいない。 もちろん未だ乳児のあいだに親に殺される者もいる。大人の骨格を備えるまで、親に殴り続けられる者もいる。しかし少なくとも中産階級の人間はそうだ。親に精神的に屠られる者もいるが、同時に無責任な期待をかけられ、育つ。
おかげで、今日び、世の中の人々は猫も杓子も自分には才能があると思っている。
どこかの新興宗教のお題目よろしく、自分は限りのない可能性に満ちていると思っている。成人すれば親の所為でも誰の所為でもない、すべてが自分の所為だ。
それは個性を尊重する風潮のせいであるetcなどと、テレビ討論会の諸先生みたいにイデオロギー批判するほど私も立派な人間ではないから、せいぜいが、将来、自分のコドモに「公務員になりなさい」と警告するに過ぎないだろう。
ともかく、かんがみれば平生、私達は絶対に誰からも否定されない世界に住んでいる。間違いだからやめろとかムダだからやめろと総てを最終的に否定する言葉は誰からも言われない。そして言わない。
そういうしたたかな障害に遭遇することなく、私達はみんながみんな、ひょっとしたら
ぜんぜんダメかもしれない自分の考えたやり方で生きている。
- 2020/01/01(水) 00:00:00|
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国民的人気アイドルに何があったのか。23日、公然わいせつの現行犯で逮捕された「SMAP」の草なぎ剛容疑者(34)は、多数のテレビのレギュラー番組をかけもちし、CMにも多数出演する超売れっ子だった。「さわやか」なイメージで売るキャラクターだっただけに、ファンらからは「残念」と失望の声がもれ、テレビ局やCM関係者はあわただしく対応に追われた。『何があったのか』も何もない。こういうニュースに対して「残念」とか「失望」とか感じる人というのは、いったい何を見て、どんな人生を送ってきたのだろう?
私は『国民的』と冠されるような枷(かせ)を背負ったアイドルが偶さか全裸で騒ぐのは当然だと思うし、それを「わいせつ」と呼ぶのは、彼に対して「失礼」を通り越して「侮辱」だと感じる。私はこの人物の人となりに、いささかの懐疑も抱かないばかりか、この人はかなり真っ当な人だと改めて感ずるばかりだ。何故そんなことがわからないのだろう?テーマ:ひとりごとのようなもの - ジャンル:日記
- 2009/04/23(木) 23:54:04|
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仕事量にはじっさい限界がある。しかし、限界をどこにするかは人それぞれで、その差は激しい。すこしばかりで、もう「いっぱいいっぱい」だと根を上げる人もいるし、過労死する人もいる。過労死する人を、昔は、要領が悪い人だと思っていたが、全然違う。逆である。過労死するような人に要領の悪い人はいない。要領の悪い人(仕事のできない人)は、仕事を与えられる前に干されるからだ。用無しばかりがふてぶてしい。
手帳を買うが、続いたことがない。牛革でもボロボロになる。システム手帳はデカ過ぎる。私は予定が多い。時間に追われる。何のために働くのか、わからない。最近、苦労しても、報われるとは、ちっとも思えなくなった。苦労すると報われるのは、昔のハナシかもしれない。といって、現実から逃れようとも思わない。そこまでの窮地には立たされていない。私が苦労しているのかどうか私自身としては何とも言えない。苦労したと自分で言える人は凄い。世の中にはもっと苦労した人がいるかもしれないのに。
その人のじっさいの仕事量と、自分が苦労したと思っているか、思っていないかは、その人の風格を形づくる。旧世代(私たちの親の世代)の人々は苦労話が大好きだった。戦争や貧困は都合のいい苦労話になる。しかし、我々がそれらに匹敵する苦労を背負っていないという証拠はどこにもない。両者の時代はあまりにも変わり過ぎているので比べようもないからだ。
今日日「これは戦争とは言えない」「これは貧困とは言えない」とは、旧世代の人々といえども断言できなくなってしまった。どう見ても、ここは戦争であり、貧困である。それでも自分が培ってきた経験を、若い人にアピールしなければならない時がある。大人とは悲劇だと思う。
テーマ:ひとりごとのようなもの - ジャンル:日記
- 2009/04/09(木) 00:18:02|
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梶沢村の外れに「ミシマ」というラーメン店があって、時々私はそこへラーメンを食べに行く。私にはこれといった趣味が無いので、先月のゴルフ場のレストランスタッフのアルバイト面接でも、面接官の「ご趣味は?」の問いに明快な回答ができなかった。結局「趣味は?と聞かれるのが一番困るのですよ」などと笑って言葉を濁してしまったのだが「ラーメンです」とでも答えておけばよかったと、今になって思う。
「ミシマ」は梶沢村唯一のラーメン店ではあるが、客の来ないラーメン店である。「ミシマ」のラーメン旨いよね、なんて風評は終ぞ(ついぞ)聞いたことがないし、私が食べている時に客が入ってきたためしも無い。が、だからこそ私は「ミシマ」へ行くのである。私の飲食店の選択基準は空いているか混んでいるかであって、混んでいる店にはまず絶対に行かない。空いていれば味など二の次でいいのだ。私は一人で、誰にも邪魔されず、誰の目も気にすることなく食事を摂るのが好きだ。酒も一人で飲むほうがいい。無論、離婚した妻にも、かつての恋人にも、友人知人の類にもそんなことは打ち明けたことはない。今、君(達)と此処で食べて(飲んで)いるよりも、一人で飲んだり食べたりしたほうがずっと楽しい、などと、わざわざ人間関係を損ねるようなことを言うほど私も野暮ではない。しかし、そんな偏屈だからこそ、いずれ人は私から去っていくのだし、少なくとも結婚までした相手には予め知らせておくべきことだった、とは思う。
空いているから行くくらいだから「ミシマ」のラーメンはさして旨い訳ではない。私にもラーメンが旨いか、それほどでもないかぐらいは判別がつく。それでも不味いラーメンではない。得てして人は飲食店のことを平気で不味いとか旨いとか評価するが、文字通り不味い食べ物というものはよっぽど珍しいものである。不味い食べ物というのは、本来塩を入れるところを間違って砂糖を入れてしまったような物であって、そんな飲食店がそうそう転がっているはずもない。きっと飲食店というもの全般が極端な評価というものを免れえない商売なのだろうと思う。そもそも自分の味覚をして「これは不味い」と判断し公言できる人は凄いと私は思う。それは凄いことであるはずなのだが、そんな人がやたらいる。少なくとも食べたものの批評を全くしない人よりは圧倒的に多いはずである。「ミシマ」のラーメンは不味いほどでもないが、旨くはない。が、私にとってみれば旨くないことが一人で食事することの安寧(あんねい)に勝ることはない。いつでも空いている飲食店だからこそ「ミシマ」へ行くのであって「ミシマ」がもしハンバーガーショップだったら、当然ハンバーガーを食べるだろう。一人でする食事の内容にラーメンが圧倒的に多いのは、一人で行けるような飲食店というものがラーメン店くらいに限られているから、に過ぎない。
誰も来ない、相客の無い「ミシマ」は私にとって楽園のような場所である。おそらくそれは「趣味」と言っても過言ではないが、アルバイト面接でそれらのことを上手く説明することは難しい。私の趣味は直截に言えば「一人で食事すること」なのである。そのまま言えば、孤独が好きな人間と思われて職場に適さないと判断されるだけだろう。だから単純に「趣味はラーメンです」とでも回答しておけばよかったと思うのだ。おそらく面接官は「ほう。ラーメンね。どこのラーメンが好きですか?」と聞くだろうから、適当に有名なラーメン店を挙げておく。面接で趣味を尋ねるのは、大凡わかっている人物像を補おうとしているか、あるいは雑談から人物像を引き出そうとしているか、そんなところである。音楽鑑賞だろうと映画鑑賞だろうと、よっぽど偏屈な趣味でなければ何でもかまわないのだ。だからこそ面接で趣味なぞを尋ねるのがおかしいのだ。趣味というのは、私の解釈では人の持っている偏向とかフェチのことである。そういうことを就職しようとしている会社の面接官に、おいそれと打ち明けるはずがない。しかし残念ながらゴルフ場のレストランスタッフは採用にならなかった。面接結果の電話がかかってくるまで半日とかからなかった。私はおそらくゴルフ場のレストランスタッフに甚だしく向いていないのである。
「ミシマ」へはかなりの頻度で行っているが主人と親しいわけではない。だいたい顔もよく見たことはない。私はたといいきつけの店といえども、そこで働いている人と親しくなったりすることはない。人にはよく行く店に上客としてあつかってもらいたいという意識があるようだが、私にはそんなものはない。飲食店の主人と親交を深めるのが目的ではない。一人で誰にも気兼ねすることなく飯が食えればそれでいい。だいたい主人や従業員と親しくなれば一人で飯を食うという目的が果たされなくなってしまう。最近はコンビニで弁当やらおにぎりやらサンドイッチを買って食べるのが多くなった。時としてそんなものがやたら旨かったりする。私はずっと職を探しており、これまでにいくつもの会社から不採用の通知を受けている。本当のところラーメンを食べる余裕すら覚束ないのだが、「ミシマ」へは足が向く。誰にだって一つくらいは癒しの場所があっていい。
「ミシマ」で一番高いラーメンは「デラックスラーメン金閣」である。地味な店にしては大仰で大上段な名前である。『三島』ということで有名な文学作品と掛けたのだろう。唐突に出てくる「金閣」の所以(ゆえん)はそれくらいしか思いつかない。が、そのラーメンの名前以外は文学の「ぶ」の字も無い殺風景な店である。書棚に三島由紀夫作品が並んでいるのかと思えば、一冊も無い。鴨居に三島由紀夫のサインが飾ってあるわけでもない。勿論、生前に大作家が辺境のこのラーメン店を訪れた気配など微塵も無い。おそらく三島という苗字の主人が気まぐれにエイとばかりに名付けてしまっただけなのだろうが、三島由紀夫の「み」の字も金閣寺の「き」の字も無いラーメン店にあっては、それはそれは不気味に映える名前である。実際の「デラックスラーメン金閣」は、ごく普通の醤油ラーメンに金粉をまぶしてあるだけである。金粉をまぶしただけの只のラーメン「デラックスラーメン金閣」を、小汚なくて誰もいない「ミシマ」の店内ですするのは、ほかにたとえようもない物悲しさ、無意味さである。無味無臭の金粉。このキラキラした輝きはいったい誰の目を喜ばせようとしているのだろうかと考えると、なにやら深遠かつ不条理な気分になり、その気分は確かに「文学的」と言えなくもない。
「ミシマ」の店内に求人の貼り紙が貼られた。店頭ではなく、店内に貼られていたので客に宛てて求人をしているのだろうと私は解釈した。主人も愈々人が恋しくなったのかもしれないなどと思った。少なくとも人手が足りなくなったわけではない。客は一人、私しかいなかった。
と、いうわけで、私は今「ミシマ」でラーメンをつくっている。私が「ミシマ」で働き始めると主人は不意にどこかへいなくなってしまった。主人の顔さえ思い出せないが、ラーメンの作り方だけは教わった。私が主人となった「ミシマ」には今、一人だけ客が来る。私もいずれ彼に「ミシマ」を譲ろうと思う。
- 2009/03/28(土) 23:03:59|
- 創作
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仕事にはいろいろあるけれど、運動量の高い仕事は健康的にラッキーである。なぜなら、医者に「もっと運動をしたほうがいい」なんて指摘されないからだ。
仕事をはけてから高い年会費を払ってジムへ通う必要もないから、経済的にもラッキーだ。
原始の時代から、労働とは基本的には肉体の疲れを伴うべきものだと思う。因って肉体的に疲れる仕事というのは、人間として正統だと思う。肉体的にだけ疲れる(精神的には全く疲れない)仕事というのは、謂わば『天国』である。
誰しも、職場や自治体や消防団、活動拠点、常日頃従事している処、があるが、その外は広い広い世界である。すなわち私たちの活動の場は、狭い狭い「井の中の蛙」的世界である。人はそれを、かなりしょっちゅう、忘れる。
私はよく「顔が広いですねえ」と人をほめる。お世辞である。地域社会に生きていれば、そいつの社交性にかかわらず、とりあえず『顔』は広くなるものだ。地域社会では「色んな人を知っている」ことが、相当なステイタスになる。「顔広いね」が、お世辞になるのが地域社会である。しかしもちろん、世界中の誰一人知らなくても、根本的には何一つ困らない。
誰一人としてアナタのことを知らなければ、それはむしろ僥倖と言えるし、それは都市に住まうことの最終的な特権とも言える。
当然制約はあるけれど、私たちはそれぞれ自分の考えたやり方で生きている。今は個人主義の時代である。けれども集団の中で、あえて自己主張する必要は全く無い、と私は思う。進行を妨げ、(それがどんな他人であれ)他人に迷惑をかけるだけである。国歌斉唱に起立しなかった程度のことで世間様を騒がしてはいけない。文章や絵画や楽曲等々、誰にもない異能においてあなたの優れた才能が認められるのなら話は別だが、みんながそうしているのに、あなただけがそうしないのは、ただの我が儘か、無能であるがゆえの目立ちたがりだと私は思う。発言で自分を示すより、能力で自分を示すべきだと私は思う。近年「オンリーワン」がもてはやされたので、人々は「オンリーワン」が素晴らしいことだと思ってしまったのかもしれない。「オンリーワン」なんてぜんぜん素晴らしいことではない。人と同じことをするほうがずっと大変だし、むしろ偉い。
『毛唐の玉遊びに一喜一憂している暇はございません』とは、右翼アーチスト鳥肌実の科白である。毛唐の玉遊びというのは、野球とかサッカーとか、のことだ。私はこういう庶民的でない発言を心から愛する。民心はいつでも3SすなわちSEX、SPORTS、SCREENに向いている。結局、それぞれ自分の考えたやり方で生きているとは言いつつも、何かにコントロールされているのだと思う。
テーマ:ひとりごとのようなもの - ジャンル:日記
- 2009/03/20(金) 03:11:41|
- 創作格言
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お客様窓口とかコールセンターとかサポートセンターとかカスタマーサービスとかインフォメーションとか、そういった場所にいる人というのは、若い女性で、比較的きれいで、かつヘッドセットをしているものと相場が決まっている。
これは誰もが認めうる紋切り型のイメージである。世界中のインターネットサイトでCustomer service と言えば、笑顔でヘッドセットをつけた人のイメージが使われている。
これは地球上でもっとも使われている汎用イメージであろう。
じっさいにはお客様窓口係ともあろう人がそれらの汎用ビジネスイメージに代表されるような余裕にあふれた笑顔を終始浮かべていられる筈がない。またヘッドセットのような高価なものを備えるのは(中小を含む)多くの企業にとって大変なことである。よってその汎用ビジネスイメージとそのイメージが使われている企業の実際のお客様窓口係の姿というものは、天と地ほどもの隔たりがあるとみてまず間違いがない。
すなわち世界広しと言えどもこれほどまでに嘘くさいイメージはない。
企業は社会に誠実さをアピールしなければならないものだが、若い女性がヘッドセットをしているイメージはインターネットサイト上にごろごろ転がっている。それこそどんな企業でもこのイメージを使っている。
迂闊だと私は思う。
テーマ:ひとりごとのようなもの - ジャンル:日記
- 2009/03/07(土) 15:54:59|
- 未分類
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「夢中になれるものがあるってさ、スゴイじゃん」というのは夏帆主演の映画「うた魂♪」で岩田さゆりが言うセリフだが、ところで、いわゆるゲームオタクとかゲーマーなどと称されたり自称する人達に愛用されては困る美徳の一つに「夢中になれるものがあるのは素晴らしい」というのがある。夢中になることは確かに場合によっては素晴らしいが、その対象が何でもいいわけはない。無論ゲームがいいわけはない。快楽的なことに夢中になるのが素晴らしいことであるなら、世の中、秩序など無いも同然だ。
夢中になって素晴らしいのは、禁欲的な努力なくしては続けたり成し遂げたり出来ないことであって、ゲームを何万時間やろうが、あなたの為人に何ら良い影響を及ぼさないのは、疑いもない真実である。タバコのパッケージには、あなたの健康を害する恐れがあると書かれていて、これは科学的な真実なわけだが、ゲームのパッケージには何も注意が書かれていない。このゲームに費やされるであろう時間はあなたの人生にとって無為である。そのように記載すべきだと思う。
成功者の多くが「好きなことをやってきただけ」という言い方を使うので、ますます混乱する。ひょっとしたらおれもこのまま好きなことをやり続けていていいのかもしれない……そういう勘違いが起こる。ニュアンスが違う。ニュアンスが違うだけなのだが、天と地ほどの差がある。「好きなこと」は、決して楽しくて快楽的なことではない。
ブログなんかで嬉嬉として自分のオタク的趣味を披瀝している人がいる。これは言うなれば、あなたのオナニー動画をネット公開しているようなものだ。それがどんな趣味であろうと、あなたの趣味には何ら罪はないけれども、趣味には品位というものがある。その趣味が他人様に披露できるものか、隠しておくべきものかを解するのは、ニュアンスを解するか否かの問題なのだが、今日日(きょうび)その辺りのことについて、人々は悉く(ことごとく)無頓着である。
一部の獣は自慰を教えると死ぬまでやるらしい。
「夢中になれるものがあるってさ、スゴイじゃん」
テーマ:ひとりごとのようなもの - ジャンル:日記
- 2009/01/31(土) 21:24:47|
- 未分類
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府知事は、東京で報道陣の取材に対し、「朝日がなくなれば世の中のためになる」と発言した。前日には、陸上自衛隊の式典に出席し、祝辞で「口ばかりで人の悪口ばかり言っている朝日のような大人が増えれば、日本はだめになる」と批判した。
「朝日がなくなれば世の中のためになる」それは間違いなくホントにそのとおりだ、と思う。
ところで、朝日というのは朝の日のことである、と思う。
- 2009/01/28(水) 06:54:46|
- 未分類
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そもそも同級会になど出たくないのだが、とある事情があって、私は毎回出席しなければならないのである。
同級会に出る度に私はつくづく身分不相応な高校を卒業したものだと感じる。だいたい同級生は有名大学を卒業し、企業に就職し、幸福な結婚をして、沢山子供をつくって、順当に昇進しているので、まぶしくて仕方がない。私は拗ねているわけでも、世に背を向けて生きているわけでもないのだが、人並みの幸福とは違う方向へ足が向くことがあるようだ。同級生と比べて身分が低いはずはないのだが同級会に居て身分不相応としか言いようのないものを感じる。ひょっとしたらほんとに身分が低いのかもしれない。
同級会の近況報告では、誰もがひとしなみに「みんな変わってないなあ」という感想を述べていたが、私は一人「みんな年老いたなあ」と感じていた。男なんかバカにしていたような同級の女性は、遠目にはこってり若作りをしていたが、お酌に側へ寄ると、化粧のぶあつさが判る、そのぶあつい化粧でも隠しきれない深い皺が見える。そんなものを見ると結構こたえる。もちろんこっちだって同様に禿げたり腹が出ていたりだが、同情というか、哀愁というか、恐怖というか、率直に「老い」というものを感じる。この先もっともっと老いて醜くなる、醜くなるのに体裁へのこだわりは変わらない、いったいどうなってしまうのだろう? そんな「老い」に対する漠然とした恐怖。
ホテルのウェイターをしていた頃から、微妙に手が震える。ワインを注げなくなって、ウェイターを断念した。ワインを注ぐのにウェイターの手が震えていたらヘンだ。今では飲み会でお酌をするときにも震える。なので私はお酌をするときはいつも必要以上に瓶を震わせて「アル中なんだ」と言って笑いをとる。近しい者との飲み会でなければ両手でお酌をする。それが理由でお酌はあまりしないので不遜な奴と思われることがあるかもしれない。
「なんであんなバカなことを言ったんだろう」飲み会が明けた翌朝にそう思うことが私は多い。同級会のように、邂逅とお酒が絡んだ時は特にそうだ。ぐるぐるとその後悔を反芻する。なぜ何度もそんなことを思い出すのか自分でもわからない。人があっさりと忘れる類の些末的なことを私は何度でも思い出す。自意識過剰とか、そんなふうなものかもしれないが、自分ではどうすることもできない。
正月はずっと眠っている。12月31日まで仕事だったし明けて1月2日から仕事が始まるので1月1日は貴重な休日である。次の休日は1か月後か2ヶ月後かわからない。だから正月は眠っている。年末年始にあっちやこっちへ移動することほど煩わしいことはない。明けて出勤すると紅白で歌手の誰々がどうだったとか、そういう夢みたいな話を誰かがしている。
独身貴族という言葉があるが、結婚歴がクリアな独身のときは貴族ではなかった。親や周囲の人間から耳に蛸ができるほど「結婚しろ」と言われ続けてきたからだ。人によって環境は違う。40になって結婚歴がないのに、誰からも「結婚しろ」なんて言われない人もじっさい山ほどいる。私は違った。毎日「結婚しろ」と言われた。そういうストレスは貴族のものではない。だから結婚歴がクリアな独身の時分は所謂「独身貴族」ではなかったのである。離婚してほんとの独身貴族になった。今や私は誰にも「結婚しろ」なんて言われない。もしかするとこの立場を手に入れる目的で結婚したのかもしれない。一度結婚して失敗すれば「結婚しろ」なんて言われなくなるだろう。『貴方』にとっては大変迷惑な話だが、そんな打算が私のどこかにあったと思う。
同級会の近況報告は真っ先に私が話した。偶然だが助かった。私は手短に笑いをとっただけだが他の皆は家族構成や家庭内の苦労話などが報告の中心だった。みんなファミリーマンだった。終わりのほうの順番だったら、私はファミリーマンでないことを報告し、リコンしたことの報告もしなければならないハメに陥っただろう。「No Family Man」なんて、この嵐吹き荒ぶ世ではちっとも珍しくはないのだが、私の同級会では確実に珍しいのである。
だいぶ昔に気づいたことだが、人には、独りが寂しい人と独りが寂しくない人の2種類の人がいるが、そのことは人間の「強さ」とは全く関係がない。すなわち、ひとりが寂しくないという人は、人間として「強い」から寂しくないのではない、ということである。私は独りが少しも寂しくはないが、人間として「強い」わけではない、と思う。ところで、人間として「強い」か、あるいは「弱い」かということを、いったいどのように判別し得るのか、という問題がある。私にとって人間社会は「人間として強いか弱いかがどのように判別されるのか」という疑問に常に打ち震えているようなものだ。もっとわかりやすく言えば、人間社会は、私にとって自分の「弱さ」が、いつどんな場面で露呈されてしまうのかという恐怖に常に打ち震えているようなものだ。
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- 2009/01/03(土) 17:15:53|
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山岸のじいさんが茹でた虎の話をしてくれた。
ぼくはむかし、インドだかタイだかの話で、虎が木の周りをぐるぐる回っているうちに溶けてホットケーキになった話は知っていた。それこそ、おやつのたびにその話を思い出した。虎は黄色に黒の縞が入っている。すごいきれいで格好いい。そんなのがすごいスピードでぐるぐる回転したら、それこそホットケーキになるのも無理はないように思われた。
でも山岸のじいさんの話は茹でた虎の話だった。じいさんはもう昔から生きている人だし、虎を食べなければいけない時もあったのだろうと想像した。さいきんぼくもコンビニへ行くと煮物みたいな惣菜なんかに無性に興味をそそられる。こんな家でできるようなもの食べてどうするんだろう、とか思う。もちろん、300円では買えないから買わないが、そんなものを買うハメになった自分のことを、たびたび想像してみることがある。年をとるというのは、たぶん、隣のコインランドリーでパンツとかシャツとかを洗っているあいだに、コンビニの惣菜を買って帰ることなのだろうと思う。木島君はもうそんな生活をやっているし、僕だって遠い未来の話だとは思わない。因みにおやつ代の300円は姉さんが会うたびにぼくにくれるものだ。姉さんというのはぼくの母さんの妹だ。そう呼んでほしいというので姉さんと呼んでいる。いい女だと思うけど子供のあつかいは下手糞だと思う。子供のぼくに、キラキラとした人という印象を残そうとしているのがありありで、しらじらしい。もっともそんな大人は沢山いる。別にめんどうな人でないからいいんだけど。
めんどうな人といったらやっぱり母さんのバイト先の店長だろう。山岸のじいさんもめんどうな時があるけれど、放っておけるからまだましだ。母さんのバイト先に谷川さんという男がいて、そいつは店長である。谷川さんはうちの母さんとおまんこしたくてしたくて仕方がないという店長さんである。そういう大人の性欲が、ぼくの世代にはぜんぜんわかんないだろうと思っているのか、ろこつにぼくに母さんのことを聞いてくる。といっても、いちばん聞くのは父さんが会社に居る時間とか、そういう現実的な情報ばかりだ。あんまり攻勢がはげしいので、母さんも少しなびいていて、カラオケならもう2度行っている。個室だからおっぱいもんだりとかしたかもしれない。おかげでさいきんますます接近してくるようになった。鼻息が荒いというのはこういうのを言うんだろう。そんなだからぼくも木島君みたいに自分で惣菜買って帰る生活もすぐだろうなあ、と思うのだ。
木島君は皆川沿いの県住に住んでいる。木島君にしてみれば県営住宅をそうやって2文字に略すのが自慢みたいな感じだった。父さんはあの辺はガラの悪い連中ばっかりだからあんまり行くなと言うが、じっさいには「ガラの悪い連中」なんかいない。朝早く出かけて夜眠りに帰ってくるだけの低所得者層の人たちばかりだから、ぼくが遊んでいる時間帯にはベビーカーを押す女性しか見当たらない。あんな安全な遊び場所もないもんだ。山岸のじいさんもその団地にいる。たいてい猫目の公園のベンチに腰掛けている。一日中そうしている。猫目というのは猫だらけの公園で、晩になると猫の目が蛍のように光るからそんな名がついた、というのがじいさんの説明だった。蛍なんて見たことはないから、暗闇の公園で想像してみたけれど、蛍は突然跳躍したり、夜半に赤ん坊のような声で鳴いたりしないだろう。もっともほんとはその公園には名前も通称もない。みすぼらしい公園だからぼくと山岸のじいさんのほかは誰も来ない。
山岸のじいさんというのは背中に名前と住所が書いた布が縫い付けてある老人だ。そこに山岸と書いてあるので山岸のじいさんと呼んでいる。茹でた虎の話をしようと言うので聞いていたら公園の名前の話だった。虎なんて茹でないし、虎なんていないし、いたって茹でやしない。たぶん山岸のじいさんのアルツハイマーもいよいよぐるぐる回ってきたのだろうと思う。そういやぼくのおなかもぐるぐる言っている。もう帰ろうかな。公園で2晩明かして身体じゅうがむずかゆい。父さんが出張へ行くと谷川さんが家に来る。そうなると色々めんどうなのでぼくとしては家にいたくない。そんな話を山岸のじいさんにしたら涙をぽろぽろ流して感動された。木島君なんてほんとは友達じゃない。でもじいさんはぼくの友達だと思う。

- 2008/11/06(木) 22:26:28|
- 創作
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歯科医の待合室に52型のデジタルハイビジョンテレビが据えられている。私はテレビを見ない人なので、テレビを見るのは全時間のうち文字通りそこだけである。したがって歯科にかかっていない時は全く見ない。テレビを見ないのは無いからで、無いのは見ないからである。特に理由もない。テレビを低俗と思っているわけではない。テレビを見ない人がテレビを見る人より高尚だと考えているわけでもない。まったく見ないのはむしろ社会性に欠ける態度である。だから私はテレビを見ないなどと他人様に明かしたことはない。テレビ番組の話題など、まるでそれを見たかのように簡単に合わせることができるものだ。
それはともかく。モニターの背面を見るとブラウン管を構成するあの難儀なでっぱりが無い。大画面なのに嘘のように薄い。画面は夢のように明るく鮮明である。歌を歌う女性シンガーの顔の毛穴までも見える。鼻の頭にうっすらと浮かんだ細かい汗の玉が一粒一粒見える。まつげの一本一本も、丁寧に描きこんだ眉も、伏し目になるたびにまぶたでテラテラと光る微妙なアイシャドーの輝きも、アングルを落とした時の鼻の穴の暗い空洞も、唇の端で微かに光った唾液も、マイクと口のあいだでチラチラと煌く(きらめく)飛沫までも、総てが見える。これはテレビではないような気がする。こんなにもの凄い再現能力の機械を、所謂「テレビ」として日常的に見るということは、何か恐ろしい。
一般人の顔は、デジタルハイビジョンテレビの画面に映し出される、という準備がないので、手入れが行き届いていない。ビリー・ワイルダーが「お熱いのがお好き」をカラーでなく白黒としたのは、トニー・カーティスとジャック・レモンの女装を、どぎつく見せないようにするためである。デジタルハイビジョンテレビにそのような配慮はない。キレイに手入れをした芸能人の顔でなく、一般人を映した場合、そこに恋人や夫や妻にしか見えなかったものが晒される。それがこれからの「テレビ」だと思う。
テーマ:TV - ジャンル:テレビ・ラジオ
- 2008/10/26(日) 18:51:57|
- 未分類
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子供の頃、夏休みの自由研究というのがあった。研究対象を決め、模造紙にタイトルを書き文や写真やイラストを載せる。今でも覚えているのは、近所の総合病院の子供、佐藤君(仮名)の作品『こーらではがとけるけんきゅう』である。『コーラで歯が溶ける研究』の内容は、抜けた親知らずをコーラの中に入れ、その歯がどうなっていくか、毎日観察した、というものだった。親知らずが抜けたことと「コーラを飲み過ぎると歯がとけるぞ」と親に注意されたのが研究のきっかけである。コーラを毎日新しく入れ替えたという記述があり、それを「もったいない」と指摘した記憶がある。なにせ親があまり子供にコーラを飲ませなかった。コーラ(のような甘いジュース類)は身体に悪いものである、という認識を持たせたかったからであろうし、また、自由な買い食いをいましめる意図もあってのことだったろう。だからコーラの値段などせいぜい80円(当時)程度だったに違いないが、子供にとってコーラは非日常的なご馳走に属する飲み物だった訳である。
佐藤君の親知らずは日に日に小さくなっていった。コーラが含有しているなんらかの成分が歯を溶けさせたに違いない。が、化学的分析が為されている訳ではないので、具体的なところはわからない。ただ、毎日、コーラから歯を取り出し、目で観察して「小さくなった」とか「穴があいてきた」とか、そういう皮相の変化を言葉少なに記しているだけである。そしてそれを毎日写真に撮った。デジカメが無かった時代の話である。接写ができるような気の利いたカメラも無かったのだろう。模造紙には一見何だかわからない写真が一面に貼ってあった。近づいて見ると、それらの写真の一枚一枚に、小さな欠片(かけら)のようなものが写っているのが認められる。タイトルや研究内容を知ってはじめてその欠片が佐藤君の歯であることがわかる。
当時の夏休みは現在ほど長期ではなかったが、それでも20日くらいはあった。模造紙に20枚近くの写真が貼ってあるのは佐藤君の研究だけだった。それだけ多くの写真を駆使しているのは、ただ、文章を書くのが面倒だったからというだけに違いない。できる限り端折りたい(はしょりたい)という粗雑さが、模造紙全体からも感じ取れた。が、そんなどうでもいいような物を執拗に撮って見せていることで、佐藤君自身が全く意図していなかったところの「一種のシュールさ」としか言いようのないものが『こーらではがとけるけんきゅう』には、あった。しかも、この研究は何らかの有機的な結論すら無かった。模造紙の末尾には「こーらではが小さくなることがわかったのでははやねへなげました」と書かれていただけである。
コーラで歯が小さくなることが判り歯を屋根へ投げた、というのは、昔は(子供の頃は)歯(下の親知らず)が抜けると屋根へ向かって投げる、という習わしだったからである。
コーラに溶け小さくなった歯を風習にしたがって屋根へ投げる、その途轍(とてつ)もない無意味さが、この研究の「一種のシュールさ」を一層引き立てていた。
総合病院の院長のご子息である佐藤君は当然大金持ちに属する子供だった。確かに写真をやたらに貼ってくるような、物量を投入してくるやり方に、無邪気な金持ちらしさも感じられた。それでも結局、佐藤君の『こーらではがとけるけんきゅう』は誰からも注目されなかった。私は何故か今でも覚えている。
日常生活で途轍もなく無意味だと感じられる事象に度々出くわす。が、それには「一種のシュールさ」なんて微塵(みじん)も感じられない。途轍もなく無意味な事は、現実世界では、やはり途轍もなく無意味なままである。
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- 2008/10/25(土) 20:43:52|
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腕を組んで、彼とデッキを歩いて行くと一斉に人々の視線を浴びた。
私達は、若く、美しく、彼は乗客のうちでも指折りの富豪で、しかも二人は婚約したばかりだった。羨望や感嘆を全身に感じて夢心地になりながら、私はしっかりと彼の腕を抱きしめた。涼しい宵闇に海は穏やかに凪ぎ、潮風も私達を祝福しているかのように頬をやさしく撫でる。次々に彼の知人や取り巻きが、前途有望な私達を囲み、私を紹介してくれと彼にせがむ。そのひとりひとりに彼は私をフィアンセと紹介し、揃いの指輪を掲げて見せると、そのたび溜息とも歓声ともしれない声があがる。彼はもはや人目をはばかる様子もなく私を引き寄せ額や頬に接吻し、紹介したばかりの人物の秘密についてそっと耳打ちしたりした。
デッキでの晩餐会。私達は賓客として、舳先に近い席をあてがわれていた。船長のシャンパンサーベルにどっと湧き、楽団の演奏が始まり祝宴になると、彼は私に目配せをした。何かやりたいことがあるようだ。私の疑問符顔に促されて彼はちょっと恥ずかしげに打ち明けた。
「舳先に立って潮風を全身に浴びながら両手を広げて目をつぶると空を飛んでいるような感覚になるんだ、やってみないかい? 」
どうやら彼はレオとケイトをやりたいらしい。私はすっかりうれしくなって彼を抱きしめた。
二人は賑やかな晩餐をくぐるようにして舳先へ進んだ。快いそよ風に髪がなびく。舳先に立つと、視界には水平線と、キラキラと宝石のような星々が今にも降ってきそうに輝いている。背後の彼に従って手を広げ目をつぶると、彼の言う通り、本当に空を飛んでいるようだ。いいしれない幸福感にひたる私の耳元に、彼はささやいた。
「ボクを信じるかい? 」
「ええ信じるわ」
と、その刹那、どん!と背中に衝撃を感じたと思うや、私は真っ逆さまに漆黒の海に突き落とされた。
幽霊になった私は伝説になり、やがてひとつの教訓を世間の淑女に伝えることになる。その教訓とは……
「舳先に立ってタイタニックの真似事をする時は必ず背後をとりなさい」
どん!
- 2008/10/17(金) 04:03:37|
- 創作
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忙しさの先にあるものを時々考える。
忙しい。でも今日が終わってなんとなくホッとする。
明日も終わってホッとするだろう。
一週間をなんとか過ごし、一ヶ月をなんとか過ごすだろう。
一年が経ち、ああ、あれからもう一年か、と思うだろう。
アッというまに10年が過ぎる。あれからもう10年。「へえ10年か、早いもんだな」と思うだろう。
そうやって20年過ぎる、30年過ぎる。
40年経ち、50年が経過する。
節目はすぐにやってくる。
忙しい忙しいと追われながら過ごすうちにどんどん年老いてゆく。
でも、ただなんとなく過ごしてきた、という訳でもないし。一瞬一瞬すべてじゃないけれど、一瞬一瞬のうちのいくつかは、ある程度頑張ってきた、と思われる。でも時間は徒に(いたずらに)過ぎるし、私は何も成し遂げていないし。何を成し遂げるのかもわからないし。
結婚すれば、妻がいる、ということになる。かもしれない。
子供を生めば子供の成長という成果が残る。に違いない。
でも、忙しさは私自身やあなた自身に何も残さない。忙しさというのはただ忙しいだけだ。私やあなたの成長や成果には繋がっていない。それでも忙しさは追ってくる。明日はやらなきゃならないことが山ほどある。それをやらなければ世界が崩壊するわけじゃないけれど、きっと、やらないきゃいけないことはやらなきゃいけないに違いない。大人だし。明日やらないと上司や同僚が迷惑するだろう。明後日もやらないと仕事は溜まって、上役に報告されるだろう。明々後日もやらないと友人は心配し、親や兄弟姉妹が何事かとざわつき始めるだろう。弥の明後日の晩に、それ以上の不義理に精神がもたなくなって、何とか気持ちを取り直して、いろいろな人たちに謝りに行く、ということになる。忙しいのにますます忙しくなる。なにやってんだ私は。ということになる。
結局、何一つ捨て切れなかった私は、凡人だな。と思う。
無軌道に生きて有名になった人の伝記なんか見てると、ひょっとしたら奴ら、どっか足りないだけじゃないのか、と思う。
大人で、世間があって、すべてが順序通り回っているのに、ドロップアウトできるなんて並みの神経じゃないよ、と思う。
忙しさの先にあるのは「死」だと思う。荘厳な「死」ではなくて、ただの「死」である。一応、大人のルールに従って生きたので、親族や縁者が篤く葬るのかもしれない。でも実際にはただ難儀なだけかもしれない。その法要の座興にこんな話が出てくる。
「そういやウン十年前、あいつ、三日も無断欠勤しやがってよ。四日目の晩に謝りに来やがった」
語り種(かたりぐさ)というやつだ。三日の無断欠勤が私の人生の総てだったのだ。どこかへ彷徨して、そのまま行方知れずになったほうがよっぽど潔かったし、迷惑もかけなかった、のかもしれない。
忙しさの先にあるのはそんな「死」である。
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- 2008/10/05(日) 00:06:56|
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若い経営者たちの交流会(パーティー)があった。場所が場所だったので、缶ビールに菓子類中心だったが、出席していた人たちは皆まぎれもない「勝ち組」の人たちだった。
スナック菓子のなかにナビスコのコーンチップというものがあった。円筒に入ったなじみぶかいチップなのだが、サルサソースが入っていて、つけて食べる。珍しかったので私は思わず出席者の(経営者の)ひとりに
「へえ、さいきんのスナック菓子はスゴいですねえ。チップにつけるソースが入っている」
と言ってしまった。言われた人が怪訝なカオをしたので、直ぐにマズいことを言ったと悟った。
「えっ、知らないの? 木村佳乃がコマーシャルやってるじゃん」
木村佳乃は勿論知っているが、私はここ5年ほどTVを見ていない。また、ここ5年ほどスナック菓子というものを食べていない。私の情報源は新聞とWEBとレンタルショップで借りてくる映画だけだった。
「え? いや、もちろん知っていますよ。でもこんな感じで入っていたとはねえ」
私は誤魔化した。もとよりどうでもよい類の会話でもあったし、相手の怪訝なカオが消えたので私はホッとした。
私は主催者側、兼、配達員、兼、配膳係だった。テーブルを配置したのも、缶ビールを並べたのも、紙皿に菓子類を盛ったのも私だった。が、パーティーではそんなことをひとつもしなかったかのように鷹揚に振る舞った。まるで経営者のように、まるで大人物のように。名刺も交換したし、笑いもとった。
短時間のパーティーでもあり粗飯ということもあって、皆少しだけしか食べず、結局(菓子類が)大量に余った。
私は1人だけ残ってパーティー会場の後片付けをした。山ほど残ったサルサソースを集め、アパートに持ち帰り、タッパに入れ、冷蔵庫へしまった。こんどライスタコスでもやってみよう。と、思っている。
あの経営者連中、パーティーの出席者でもあった私がスナック菓子の付録のサルサソースの残りをかき集めて持ち帰ったなんて、絶対思わないのだろうな。
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- 2008/09/26(金) 11:43:55|
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携帯電話に着信があって、その時たまたま自分が独りで静かなところに居た場合、テレビとかオーディオとかラジオとか何かしらの音源のスイッチを入れて、周りに音がある状態にしてから着信に応える、という人がいた。
この行動の理由が解らなかったのだが、最近になって解った。携帯電話での会話において、周りがシ〜ンとした静かなところに自分がいることが相手に知られてしまうと、相手は「こいつは孤独で寂しいヤツだ」と見なして哀れむかもしれない……それを警戒する、という理由だった。
世の中には色んなことを考えている人がいるものだ。
私の個人的観点からすると、自分が人様に「孤独で寂しいヤツ」と思われたり、見なされたりするのは、大歓迎である。そう思われることによって、狭い地域社会の日常生活において、人様から(嫌われはしないものの)敬遠されたり解放されたりすることは、願ってもない幸福である。と本気で思う。
小さな社会では、一定の社会性や社交性を認知されつつも、相手に「コイツあんまりフレンドリーなヤツじゃないな」と思わせておく工夫は(少なくとも私にとっては)とても重要である。そう思わせておかないと、例えば、行きたくもない飲み会に毎度誘われてしまう。
ハリウッドの寵児、ハワード・ヒューズ(あるいはハワード・ホークスだったかもしれない)がハリウッド進出をはたしたイギリスの気鋭の映画作家、アルフレッド・ヒッチコックを自邸でのパーティーに招待した際、ヒッチコックの人物についてこんな感想を残したという逸話が残っている。
「いいヤツだがパーティーに呼びたくなるようなヤツじゃない」
映画オタクのヒッチコックにとっては、ハリウッドのどんちゃん騒ぎのパーティーに出るより、独りで映画のことを考えたり構想を練っていることのほうがよっぽど楽しいに違いない。
すなわちこの発言はヒッチコックの人嫌いを象徴するような皮肉をもって世に知られているのだが、ヒッチコック当人にとってみれば願ったりな人物像だったであろう。人々がヒッチコックを「人嫌い」だと認めれば、面倒な対人手続きをまるごと回避できるからだ。
武田鉄矢が『思い出というものは、その時、傍ら(かたわら)に居た仲間をともなって思い出されるものだ、独りで居た時の思い出というものはあり得ない』というようなことを言っていたが、私はそうは思わない。私は独りで体験したことを、繰り返し、思い出として思い出す。
『独り』は世間一般的には、哀れむべき寂しいこととされているが、私にはそれが『寂しい』という認識が無い。
ただ世間一般がそれを寂しいことだと定義しているので、独りではないような、仲間が大勢いるような、体(てい)を繕って(つくろって)いるだけだ。(例えばヒッチコックのような)才能が無いのなら、ゆめゆめ『世間一般の定義』に逆らうべきではない。結局そういうことなのだろう。
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- 2008/09/25(木) 01:14:10|
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名古屋でメーカーのセールスマンをしていた頃、先輩の一人が、ある時ソッと自分は酒屋の長男であると打ち明けた。酒屋を継ぐのが嫌で名古屋へ出てサラリーマンをやっている、とのことだった。先輩のアパートで、何度かふたりで一緒に飲んだことがあった。冷蔵庫のビールの在庫が常に豊富な人だった。由緒ありそうな磨りガラス瓶の酒が、間取り1Kの台所に無造作に置かれていた。酒屋だと聞いて、なるほどと合点がいった。
ある人は酒屋の長男として生まれる。が、酒屋が嫌いで、都会へ出て勉強するフリをしつつ大学を卒業し、そのまま東京や大阪や名古屋の企業へ就職する。会社員になって、しばらく家業から逃げ続ける。酒屋を継ぐのが嫌だった。酒屋なんてカッコ悪いと思った。どうしても嫌だった。
きっとどこにでもあるハナシだろう。
生まれた時、私たちの人生はだいたい決定する。酒屋の長男なら酒屋を継がなければならない。公家の娘に生まれれば皇室に魅入られる可能性もある。生まれながらにして親がもっていた病に感染していることもある。産油国の王の息子に生まれ、一生を放蕩と遊芸に費やすこともある。Etcetc
個人。英語でいうpersonの語源は、ラテン語のペルソナから来ている。ペルソナとは「仮面」という意味だ。「仮面」とは「真実を隠すためのみせかけ」の意である。なるほど、人は確かに、良かれ悪しかれ、多かれ少なかれ「仮面」を背負って(しょって)生きている。
私もあなたも、あなたの親も、またその親も、とびきりランダムに生まれる。
ラーメン屋、テロリスト、牛乳配達員、葬儀屋、総理大臣、石材加工店、AV女優、アルコール中毒治療中患者、エンジニア、登山家。およそ、想像もできない人間のムスコやムスメとして生まれる。そして
たいていの場合、もって生まれた(家柄とか経済状況とか生業とか時代背景とか国の主義とか望まれて生まれてきたか又はそうでないか等々の)環境に逆らうことは容易なことではない。また、もって生まれた環境に逆らって自分の思い通りのことをするのが、必ずしも、立派だったり正解だったりする訳でもない。嫌々ながらにせよ、親から受け継ぐべき(職)業を受け継ぐ。嫌々ながら受け継いだのだが、月日の経過に次第次第に感化され、興味を持ち、受け継いだ業に熱心に打ち込むに至る。類型的だが、それが普通でそれが最も幸福と見なされる。そういうものだ。
その(職)業を親から受け継いだのは、あなたが何十億という人類のなかで、最も、その(職)業に適していたからという訳ではない。そこに生まれ出たからそうなったのだ。
結局「運命」だったのだ、ということになる。すなわち、結局「仮面」に過ぎなかったのだ、ということにもなる。でも誰も、受け継いでやり遂げた人の人生の今際の際(いまわのきわ)に「結局「仮面」だったんじゃないのか? もっと適した場所や業があったんじゃないのか? 」などとは言わない。
梨園の世界に生まれた、團十郎や染五郎や菊之助や藤十郎や三津五郎、そういった人々は結婚して子供を産み二世に稽古をつけるけれども、それが息子でなくて、どこかの山猿であっても、朝な夕な稽古をつけられれば、どのみち歌舞伎役者になるに違いない。素質にかかわらず、品性にかかわらず、梨園の世界に染まるだろう。「血は争えない」などというが、欺瞞というものだ。血は充分に争える。
近所の床屋は志ん朝に惚れていて、散髪のあいだじゅうずっと志ん朝のCDを流している。彼が誓願寺にあと100キロばかり近くに生まれていれば、本当に落語家になっていたかもしれない。演芸を諦めて理容専門学校を選んだ青春時代があったのだ。と思う。いったい誰が「人はもって生まれた属性に影響されない」ということを証明できるだろう?
言うまでもないが、我々が背負って(しょって)いる「仮面」とはもって生まれた環境などの属性を言う。理不尽きわまりない属性である。時々、ソレを理由に人殺しをするキチガイもいる。生涯ソレを恨みながら死んでいく人もたくさんいる。
この「仮面」の決定的な弱点は「取り替えられない」というところにある。仮面を背負ったらその仮面は一生外せない。一生外せないので「じゃあ来世に託そう」というハナシになる。
となると、おい、まてよ、来世に希望を託すったって、まだこの(今世の)「仮面」の先は長いじゃないか。俺は明日頓死するわけじゃないんだぞ。まだずっと先までこの「仮面」背負ってアレもコレもやんなきゃなんないんだぞ……
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- 2008/09/15(月) 13:40:02|
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西日本では「ほんとのところ」とか「ぶっちゃけ」とか「じっさいもんだい」とか、本当のことを打ち明ける話の冠に「しょうみなはなし」(正味な話)という言葉を使う事(又は所)がある。他地方の私にとっては魅力的な響きのコトバである。
名古屋で営業職をしていた頃、先輩は「正味な話」を冠するのが口癖だった。口癖なので正味な話がじっさいあまり正味な話ではなかったりはしたが。
最近、汚染されている米をバラまいた会社が注目されているけれども、あるいは、同類の悪質または偽りの食品を輸入したり卸したり売ったりした食品会社の話が再三世の中の注目を集めるけれども、あるいは地球環境の悪化を憂える団体が日常生活に取り入れることの出来る些細なエコロジーを訴えるけれども、どれもこれも
結局、正味な話(しょうみなはなし)人間が、安全かつ健康的かつクリーンなものばかり食べて、長生きしてしまうのがいちばん国家的地球的に困るでしょうに。我々全員が、まだ動ける(働ける)うちに頓死するのなら、いったいどれだけアフリカのジャングルが延命するだろう? いったいどれだけ地球は長生きできるだろう? 正味な話。
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- 2008/09/10(水) 23:52:47|
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仕事で、日常生活で、ときどき名前を読み間違えて、又は書き間違えて、ムッとされたり、叱られる事がある。
名前を読み間違えられたり、書き間違えられて、そのことで怒りを感じる人間は、その社会性に重大な欠陥あり、とみなして間違いない。
私は生まれてこのかた、自分の名前を正しく読まれたことが無い。それもそのはず、読めないような非-常用の読みを用いているからだ。
アナタの名前を読まざるを得ない、また書かざるを得ない人間は、アナタの80年の生涯の間に、何十、何百、何千とあらわれるだろう。その度にアナタがその間違いに怒りを感じるのなら、アナタは自分の名前に対する不屈の自尊心の持ち主と言えるのかもしれないが、その怒りは社会にとって、又アナタ自身にとって、一銭の価値もないことを覚えておくべきだ。
アナタはアナタのナマエを読み上げた、または書いたどこかの誰かにとって、完全なるアカの他人に過ぎない。そのようなアカの他人に自分の名前を正しく扱ってもらおうとするのは、甚だ(はなはだ)不遜というものだ。
なぜアカの他人がアナタの名前(の正しい読みや書き)を知っていなければならないだろう?
なぜ名前を間違えられた程度の軽微なことで、その誰かと対立の構図にならなければならないだろう?
アナタだって私だって誰にも知られていない一般人に過ぎないではないか。
勿論、そんな時(読み間違えて又は書き間違えて叱られた時)は「おまえの名前なんか知るかよ」と言いたいのをこらえ「失礼しました」と謝るのだが、内心「こいつはバカだ」と、心底、思う。
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- 2008/08/22(金) 23:50:59|
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蕎麦が好きだ。蕎麦が好きな人は多い。そのぶん講釈をたれる人も多い。それぞれ一家言あって、ワインのようでもある。自分では認めない蕎麦について、たとえば「あんなのは蕎麦じゃない」と言ったりする。私も、東京で蕎麦を食べたりすると「こんなのは蕎麦じゃない」と思うことがある。都心の蕎麦はバカみたいに高い。ウソみたいに(量が)すくない。一掬いするともうお終い。そのほんのちょっとを高級懐石料理みたいな雰囲気で食わせる。
庶民の食いものにそういう権威を着せてはいけない。しかし小麦ほどではないにせよ、そば粉の値段が上がっているのは確かだ。知人のやっている一等好きな蕎麦屋では中国産そば粉を使っている。国産は高い。といって国産でなければ蕎麦が不味いわけではない。
儲かっている製造業の社長、蕎麦好きが高じて蕎麦屋を開店した。専用畑を所有し栽培から一貫してこだわりの蕎麦屋、いわば道楽だから利益もあまり出なくてかまわない。おそらくみんな持ち出しなのだろう。蕎麦は確かに旨いが、東京ほどではないにせよ値段が高い。量も少ない。
蕎麦はその食べ方からして、速く食べられる。速く食べられるのだから、量が少ないのは致命的である、と私は思う。蕎麦なんて600グラムくらい平気で食べられる。食べようと思えば1キロだっていけるだろう。それでもおなかにもたれない。そんな量があってなんぼという食べ物を、高級懐石料理みたいに気取ってほんの180グラムだけ出す蕎麦屋がいかに愚の骨頂かお分かり頂けるだろうか? 旨い不味い以前の問題である。
蕎麦は腰(歯応え)も大切だが、父は腰の強い蕎麦について「こんなんじゃ年寄りが食えない」とよく言う。腰は確かに大切だが、蕎麦なんて年寄りも食べるのだから「はもろい」蕎麦があったっていい、よくそんなことを言う。
「はもろい」とは「歯脆い」とでも書くのだろうか? 辞書には無いが、やわらかい食感をあらわしているのがよくわかる言葉である。
父は歯も健常で、年寄りというほどでもないのだが、蕎麦好きで、永年蕎麦を食べるうちに、腰の強い歯応えのある蕎麦に飽きてしまったのかもしれない。
茹でてから時間が経てば全ての蕎麦は「はもろく」変わる。同時に蕎麦として値打ちも無くなる。茹で過ぎも同じだ。それでも、蕎麦は「はもろい」のがいい、なんて言うのは、むしろ蕎麦通な感じがする。
電車通勤をしていた頃、既に茹でてある乾麺を湯どおしするだけの立ち食い蕎麦屋へちょくちょく行った。そんなものがやたら旨かった。
たいていの蕎麦好きは自分が一番蕎麦に精通していると信じている。そば粉が何割とか、つなぎには何がいいだとか、そういうとめどもないことを語り出されることがある。私も蕎麦好きを自認しているので、父にならって、蕎麦は「はもろい」のがいいですね、などと語るが、たいていは取り合ってもらえない。本当は、蕎麦なら、乾麺だろうがつなぎに山芋やら卵やらを使っていようが、又たとい茹でたてで無かろうとも、量がいっぱいあるだけで幸せだ。
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- 2008/08/07(木) 21:58:59|
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数年前、いや、十数年前かもしれないが、社員旅行で海外へ行った。私は飛行機に乗ったのは生まれて初めてか、もしくは2度目くらいの海外旅行非熟練者であった。もちろん今でもそうである。
飛行機のエコノミークラスの客席で、私は調子に乗って(じっさいには調子に乗っていたつもりはないが、後から考えれば調子に乗って、ということなのだろう)アルコールを沢山飲んだようである。遙か空の高み、上層雲で、腹を客席のベルトに締められた状態の海外旅行非熟練者に、アルコールがどんな風に作用するのか、予期していなかった。海外旅行というものが私の人生の全時間の中でも確実に珍しいことであったから、そうとう油断していたのであろう。
結局、私はかつて無かったほど、気分が悪くなった。想定外の事態であった。「これはマズイ」と思った。なにしろ空の上である。ニンゲン、カラダの具合が悪くなるにしても、なっていいところと、なってはいけないところがある。地上から10キロ離れた空の上は、絶対に健康状態を損ねてはいけないところである。そんな意識がはたらいた。
そこで私は額から玉の汗をポロポロ零し(こぼし)ながらも、気分が悪い様子など周りの人たちに微塵も見せずに、トイレに立った。内側から鍵を閉め、(のどの奥へ)指をつっこんだり、(静かに)唸ったり、気分の悪さをを晴らすべく、あらゆる算段をうってみた。ところが期待していた嘔吐もならず、具合はいっこうによくならない。私は死ぬ思いで狭苦しいトイレの洋式便座に座って、ただ荒い呼吸をしていた。
「マズイな」とは思いつつも私は自分の身体を案じていたわけではない。私は全く自分の身など案じていなかった。私がトイレに滞在している時間が、間もなく外の連中にとって尋常でない長さとなるだろう。あるいは、誰かが既に扉のすぐ外でトイレ待ちをしているかもしれない。トイレにしては長過ぎる時間、席を外している私を、上司か同僚が気になって、いまにもトイレ扉の前までにやって来るかもしれない。いまにも「○○くん、大丈夫か?」などと、呼びかけられるかもしれない。あるいは私に赤ワインを提供したあの美しいスチュワーデスが「お客様!お客様!」とか叫びつつ扉を叩くかもしれない。私にとっては自分の身体の状態以上にそれらが一番マズいことだった。
それでも、死にそうな私には何にもできない。ただハアハア呼吸している以外に、できることがない。私は、だからこそ「これはマズイ」と思ったのである。
結果的には、十分あるいは数十分ほど後に運良く体調が好転して事なきを得た。私は何事も無かったかのようにトイレを出た。
依存できるものが無いところ、または依存できるものが限られているところで、人は、他人に依存しなければならない状態になってはいけない。海外とか、空の上とか、無人島とか、アフリカの少数民族の村に居るときとか、あるいは、会社とか、公共交通機関とか、そういう他人たちの土俵で、他人たちに迷惑をかけてはいけない。これが日本人の基調ルールだ。
単純に言えば、英語が喋れなければ海外へ行くべきではない。子供を育てることができなければ子供を産むべきではない。仕事ができないなら、仕事をすべきではない。生きられないなら、生きているべきではない。そういうことだ。
脳溢血とか心筋梗塞とか、そういうもので突然死する可能性のあるような生活をしているのなら、寝床を棺桶にすべきだろう。経年のあいだに病気がちになったら、死に場所をいちはやく探し当てるべきだろう。
誰もが誰にも迷惑をかけずに生き、死ぬべきだ。無論そんな潔癖なことはじっさいには無理だろうが、そういう
最終的な孤独を誰もが携えて(たずさえて)生きていたら、世の中はきっとレイモンド・チャンドラーの小説のようにクールだろう。
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- 2008/08/02(土) 02:29:06|
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ロイド・コールは言うなればヴァン・モリスンのようだ。もっと言えばボブ・ディランのようでもある。そんな偉人にも劣らない、ストイックでスタイリッシュなミュージシャンだと思う。
コモーションズとのラストアルバム「Mainstream」のアルバムジャケットはロイド・コール自身のポートレイトだった。忘れもしない。くるおしいほど印象的なモノクロのアルバムジャケットだ。
アントン・コービン風なので、永らくアントン・コービンが撮ったのだろうと思っていた。でもじっさいはAlastair Thainというイギリスの写真家が撮ったものだ。最近知った。すごく重いけれど
HPもあった。素敵な写真家だと思う。
U2の「The Joshua Tree」辺りから、アントン・コービンは繁くアーチストポートレートにクレジットされるようになった。世界中のアーチストにとって、アントン・コービンに撮られることは、篠山紀信におっぱいを撮られるよりも、遙かにステイタスであることは間違いない。
「Mainstream」も「The Joshua Tree」と同じ1987年のアルバムだ。20年以上前だが、今なお無意識のうちに「Hey Rusty」を私は口ずさむ。Remember? it's like yesterday……
(1987年当時)もう既にコンパクトディスク(CD)が浸透していたのに、私はまだ(アナログ)レコードを買っていた。大きなアルバムジャケットに惹かれるところがあったし、カートリッジと併せて13万円くらいの高級なレコードプレーヤーを持っていたからでもある。ベルトドライブだった。
「Mainstream」は、六本木にあったWAVEというCD〜レコードショップで買った。当時は東京に住んでいたのでそこへ何度か行った記憶がある。もう六本木へは、実用的にも心情的にも疎遠な場所なので15年以上行っていない。今、WAVEという店が在るのか、無いのか、知らない。昔の話である。
ロイド・コールは私にとって同時代のミュージシャンだ。このミュージシャンのオンガクは、まるで手にとるようにわかる。初めて聞いた曲なのに懐かしく、しっくりと耳になじんで、涙が溢れる。私もときどき抗うつ剤が欲しい。
「Mainstream」のアルバムジャケットのロイド・コールが見据えている先に何があるのかわからない。それでも何か素晴らしいものがありそうな、得も言われない表情である。初めてこのジャケットを見て打たれ(六本木のWAVEで)しばし佇んで眺めていたのを最近懐かしく思い出す。
antidepressant:抗うつ剤
テーマ:洋楽 - ジャンル:音楽
- 2008/07/25(金) 01:26:56|
- オンガクをコトバで
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【7月17日 AFP】韓国の首都ソウル(Seoul)の日本大使館前で17日、日本の新学習指導要領の解説書に「竹島(韓国名・独島)」が明記されたことに抗議する団体が、日本の国鳥キジの首を切り落とすなど過激な抗議活動を展開した。軍服姿の抗議した40人あまりは、キジ9羽の首を切り落とすと、その血を福田康夫(Yasuo Fukuda)首相や歴代首相の顔写真や日章旗に塗りたくるなどした。なかには「独島は我らの領土だ」と叫び、殺したキジの内臓を食べるものもいたという。この後、抗議者らは日本大使館の敷地内への侵入を試みたが、機動隊に阻止された。狂った犬がうろついていたら、わざわざその視界に入って襲われる対象になることはしない。噛まれたら狂犬病に罹ってしまう。まして狂っている犬に「おまえは狂っているんだぞ」とわからせてやることはしない。そんなことは不可能だし、無意味でもある。狂った犬がうろついていたら、近寄ったり、かまったりしないで、そいつがどこかへ行ってしまうまで、やりすごすのが普通だ。ところがその犬は、吼えるのをやめたり、私達のそばから離れるということがない。仕方ないから、噛まれないような距離を保ちつつ、餌付けたり、宥め(なだめ)たり、そういう庇護のような懐柔のような対応を永遠に続けなければならない。
テーマ:ひとりごとのようなもの - ジャンル:日記
- 2008/07/19(土) 19:52:47|
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お金を引き出しにコンビニのATMへ行くのだが、手数料が210円かかる。
引き出すだけで210円は高い。
銀行へ行けばいいのである。が、銀行へ行くとやたら人に遭う。
銀行は誰もが利用し、滞在時間も長くなることがあるので、人に遭いやすいのであろう。
時として思いがけない人にも遭う。
それが煩わしいか否かは相手にもよるが、たいていは煩わしい。
相手はやたらリッパになっていたり、やたらキレイになっていたり、妙に無粋だったり、みすぼらしかったり、色々だが、時間の隔たりが、私と彼又は彼女の間に深い距離をつくっていて、邂逅にその距離を一挙に縮めようとするような取り繕い(とりつくろい)をするのが煩わしいのである。
相手にも狼狽の色が見えると余計に気遣わしい。
だから210円のコンビニ手数料は私にとってはちっとも高くない。
地方に住むというのは、そういうことだ。
お金を引き出す程度のことすら、人知れずできない。
コンビニでお金を引き出しているところを見られるのも微妙なニュアンスにおいてあまりよろしくないから、一町二町むこうのコンビニまで足をのばすこともしばしば。
地方住まいとは全体がそんなことだらけである。
何とか人目を避けようとする態度のことを、地方では自意識過剰とは言わない。
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- 2008/07/17(木) 15:58:50|
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オークションやネットショップで、よくこんな売り言葉を見かける。
「自分へのご褒美にいかがですか」かつて、女子マラソンランナーがオリンピックでメダルを手にした際
「自分で自分をほめたいと思います」と涙ながらに語ったコメントが一般大衆の感動を呼び、それが流行語大賞にまでなったことがあった。
それ以来
「自分で自分をほめる」とか「自分へのご褒美」とか、自らの労や精神の消費に対して自ら讃賞する発言や行為が一般化したように思う。
結論から言うと、そのマラソンランナーの発言以来、
多くの人々が、自らの労や精神の消費に対して「これだけのことをしたのだから、これくらいは許される」という『弁解』を用いるようになった……ように思う。
しかし「自分で自分をほめる」のは、根本的におかしい。というより「自分で自分をほめ」てはいけない、と私は思っている。もっと言えば「自分で自分をほめる」ことは出来ない、と私は思っている。
年を重ねる毎に、人は(身内を含めた)他者からほめられなくなる。おおむね25歳くらいから私達は誰からもほめられなくなる。会社では昇進する毎に、だんだんほめられなくなる。管理職ともなれば愈々誰からもほめられない。ほめられなくなったことに、人は(他者から)認められなくなったかのような寂しさを感じるようである。
このマラソンランナーは、メダル獲得という偉業を成し遂げたことに高揚していたからこそ、自分を晒け(さらけ)出し「自分で自分をほめたい」という自慰発言をしたのである。そのような特殊な状況下で発せられた言葉を模倣して、なんらかの偉業を成し遂げたというわけでもない一般庶民が「自分で自分をほめる」という発言や行為を日常生活に取りいれるようになったことが、私にはとても不自然に感じられる。
マラソンランナーのこの発言以来、
人々は『ニンゲンというものは結局、死ぬまで誰かからほめられたいと思っている』という事実を、簡単に露出してしまうようになった。それまでは、そんなことは死ぬまで隠し通すのが「品格」だったように思う。私はこの論を少しも大げさだと思わない。
「これだけのことをしたのだから、これくらいは許される」という『弁解』は、そのまま凶悪犯の『言い訳』に繋がってくる。凶悪犯は自分自身の生い立ちや属性の不遇を拠り所(弁解)に、無辜の者達を殺害し、殺害したことに対して些か(いささか)の良心の呵責も無いままである。
「俺はこんなに不幸だったのだから人を殺しても許される」彼らはそう考え、死ぬまでそう信じ続ける。
人殺しの心の内側で、人を殺したことにどんな理由付けがあろうとも、人殺しは人殺しである。
私は自費で2,000円前後のワインを買う時などに、このマラソンランナーの発言を思い出す。私は、自らの一日の精神や労力の消費が、2,000円の赤ワインで癒される価値がある、と判断しているのではないだろうか?と疑うのである。勿論、どのような理由において贅沢をしようが個人の自由である。
しかし、私の心の内側で、贅沢をしたことにどんな理由付けがあろうとも、贅沢はやはりただの贅沢である。
この発言をした女子マラソンランナーにおそらく罪は無いが、私は、以上のような理由からこの露悪的な発言をした元女子マラソンランナーが好きではない。
「自分で自分をほめる」のであれば、ニンゲンの行動に制約は無いも同然である。もっと、厳しく自分を見つめろ、と言いたいわけではない。私はそんなことが言えるほど自己に厳しくはない。「自分で自分をほめる」という意識は危険である、と言いたいのである。ニンゲンが自分で自分をほめはじめたら、箍(たが)が無いも同様で、秩序など無くなる、と言いたいのである。
今や、
誰もが自分が寂しがりやであることを、堂々と主張するようになった。
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- 2008/06/27(金) 18:41:05|
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名古屋で営業をしていた時分、予算を達成することができなくて、しばしば詰められた。
「予算」というのは課せられた売上額のことだ。「詰められる」というのは、謂わば、責任を追及される、という意味だ。
バブル期はとうに終息していたのだが「予算」は依然として古きよき時代を反映したままだった。
店員と親しくなって、過剰在庫を抱えさせる。いずれ返品に遭うのは必至なのだがその月の予算はなんとかしのげる。そんな場当たりな対策でしか「予算」を達成する方法は無かった。だいいち、フランチャイジーや量販店の支店ばかりで、導入することのできる「定番品」が決まっている。新製品を導入したければ、本部と交渉しなければならないのだが、生憎、本部は他の誰かのテリトリーにあった。大店はなべて契約済みで、残っているのは街のパパママショップばかり。そんなところへ新規営業をかけても、面倒が増えるだけで一銭の得にもならない。ベンチャーというコトバも無く、充分なコンサルティングも施されない時代だった。ただひたすら「予算」がいかなくて、ただ闇雲に叱られていた時代だった。売上を上げる方法は無限にあるのかもしれないが、近視眼的になっていた私に発想もなにもあったものではなかった。
「詰め」は相当にキツくて、50代のベテラン営業マンの田中さん(仮名)が毎度涙を流して所長のお咎めを受ける。それが月次会議のいつもの光景だった。50代。いい歳した男性が、泣いて所長に謝っている。新卒だった私はその光景に衝撃を受けた。社会というところがとんでもなく厳しいところだと認識した。サラリーマンが「気楽な稼業」だなんて、とんでもないと悟った。田中さんにはコドモが3人いた。世の中っていうのはなんだかんだいっても地獄みたいなところだと思った。
昔のことで、当時を今思えば、確かに懐かしい。とはいえ、時が経過したので私が達観したというわけではない。うまくやりぬける渡世の術をマスターしたわけでもない。私はいまなお他人から本気で叱られることがある。叱られる原因は、仕事に関することであったり、私の社会性に関することであったりする。その都度私は人間として未成熟を思い知らされる。
「覚めない夢の中でやったような感じだ」
「女の子が泣きだすとネズミ人間が出てきた…」
「何かの間違い。そのうち無罪になる」
「(死刑とした最高裁判決(06年1月)について)『あほか』と思います。『その裁判官、あとで泣くことになるぞ。ばかだなあ』と思います」
「(殺害した4人の幼女や遺族に対し、改めて何か言うことは)特にありません。良いことができてよかったです」
「私の車とビデオを返してほしい」
「また鑑定を少しやってみたくなった」
「現行の執行方法だと、死刑確定囚の人は、刑執行時は恐怖とたたかわねばならず、反省のことなど考えなくなる。アメリカで行われている薬物使用執行をしなければいけない」
「無罪です」
「やっぱり私は人気者だ」
「小学校を選んだのは、できるだけたくさん殺せると考えたから」
「たくさん殺せば確実に死刑になるし、道連れは多いほうがいいと考えた」
「世の中、全員が敵だった」
「勉強ができる子でも、いつ殺されるか分からないという不条理を分からせたかった」
「井の中の蛙(かわず)の、しょうもない貧乏たれの人生やったら、今回のパターンの方が良かったのかもしれない」
「人生のうっぷんのようなものが出てきて、嫌になってしまった」
「誰でもいいけどかまってほしかった。現実の世界でもネットの世界でも孤独になり、ネットの世界の人間に自分の存在を気づかせてやろうと、事件を考えた」
「小中学生のころ、母親から勉強しろと言われて嫌だった」
「勝ち組はみんな死んでしまえ」
「人が足らないから来いと電話がくる。俺(おれ)が必要だから、じゃなくて、人が足りないから」
「ネットですら無視されるし」
「これを書けば人気者になれるかと思ったら、そんなことはないみたいね」
「携帯ごしでも友達がいるはずだったのに」
「現実でも一人 ネットでも一人」
「【友達できない】不細工に人権無し【彼女できない】」
「彼女がいない、ただこの一点で人生崩壊」
「死ぬまで一人 死んでも一人」
「一人の食事ほど虚(むな)しいものはない」
「県内トップの進学校に入って、あとはずっとビリ 高校出てから8年、負けっぱなしの人生」犯罪者の言い訳、宮崎勤や宅間守や加藤智大の言葉を見ていると、私は、売上がいかなくて叱られていたあの当時の自分や、キツい咎めを受け自らの能力と営業努力の不足を自戒しながら涙していた田中さんのことを思い出す。田中さんは徹底的に詰められながら、弁解ひとつ言わず、ただひたすら謝り続けていた。といって、田中さんは、人を殺したわけでも、婦女子を強姦したわけでもなかった。売上を伸ばそうと懸命に努力していたのである。
人殺しの「言い訳」が大勢の人々に晒される。とうてい聞くに値しない拗ねた子供の言い訳なのに、それがニュースとなって一億人に伝わる。およそどこの営業所長であろうと「言い訳するな」と怒鳴って耳を貸さない種類の戯けた(たわけた)言い訳なのに、ヒロイックなまでに喧伝される。挙げ句の果てに著書まで出る。まるで私達一般庶民が彼らの言葉に聞く耳をもっているかのように、余すところなく伝えられる。
努力家のファミリーマン田中さんは詰められても言い訳することが許されなかったのに、人殺しは弁護士をあてがわれ、時間をかけて丁重に訊問され、詰められもせず、甘ったるい独善的な妄想と言い訳を滔々と吐き出すことができる。
世の中は時として、目眩(めまい)をおぼえるほどにアンフェアーだ。彼らが本当に制裁を受けたと言えるのか? 私は、無辜の者を殺して死刑になった(なるであろう)彼らが地獄の業火で永遠に焼かれることを心から願っている。
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- 2008/06/22(日) 22:29:33|
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「やればできる」というコトバがあるが、今日日(誰もが知っている通り)実際には「やってもできはしない」。勿論、やらなければもっとできないのだが、それにしても「やればできる」は根本的な誤りである。それでも教育者達は「やればできる」が実践的な啓蒙であると信じ、好んで使っているようである。少なくとも「やればできる」の頭に「うまく」を付けて「うまくやればできる」とすべき時代になってしまって久しいのだが、やり方はどうであれ、とにかく「やる」というぶっきらぼうで不屈の精神が、若者を育む(はぐくむ)であろうと、教育者達は信じているようだ。一面的にはそれはその通りだと思う。
現代人の努力、すなわち「やる」ということは、その人が宝くじを買うのと似ている。
ある人が、私が頻繁に数字選択式宝くじを買うのを咎めて(とがめて)
「なんでそんなものを買うんだ?金をドブに捨てているようなもんじゃないか」
と言ったことがある。
「買わないと当たらないから買うんだ」
私はそう答えた。
現代人が努力するのは確かに宝くじを買うようなものである。買ったことでほんの少しだけ当たる(努力が報われる)確率が上がるのだが、当たる(努力が報われる)可能性は依然として天文学的に低いままである。
しかしこれだけは断言できるが(宝くじを)買わなければ、絶対に当たらない。
同じくこれも断言できるが、やらなければ(努力しなければ)絶対に成就しない。
宝くじを買う気持ちを「藁にも縋る」(わらにもすがる)と形容したりするが、現代人は特別、藁にも縋る気持ちで宝くじを買っているわけではない。一定の所得を有する無産〜中産階級の人々が、余剰過の収入を見出そうとして宝くじを買うのであって、本当に生活に困窮している人は宝くじを買わない。お金がないから買わないのではなく、確率に期待する精神的ゆとりがないから買わないのである。
往々にして、努力しても報われない。それでも努力は要求される。倫理的にみても当然努力はすべきだろう。若い人に「やってもできない」と諭していたら犯罪が増えるだけだ。今も昔も努力は努力である。しかしそれが成就するのは宝くじのように淡い。
ネットカフェ難民達が「やればできる」などという啓蒙を聞かされたら逆上すること請け合いである。世の中はどんどん単純ではなくなってきている。昔の人々は、自分の成功談や人生を語って、他人に諭すことが出来たが、今日では人様の体験など話半分に聞いておいたほうが利口である。私やあなたの独特な人生には、些かの汎用性もない。
テーマ:ひとりごとのようなもの - ジャンル:日記
- 2008/06/03(火) 00:08:55|
- 創作格言
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広告等でつかわれる汎用の写真素材のなかに「ビジネス・シーン」というのがある。
知っての通り「ビジネス・シーン」は構図的に決まったパターンを持っている。たいていその写真には、ノートパソコンか受話器を携えた美麗な外国人モデルが写っている。勿論、ここでいう外国人というのは白人のことである。そこは綺麗で整然としたモダンな広いオフィスで、高層らしく、窓からは大都会が眺め渡せる。
……
つくづく使えない素材である。
まず、高層ビル内の綺麗なオフィスで働く白人の社員というものが、日本のすべての職場環境のなかでどれほど稀有な存在かということを「ビジネス・シーン」を売っている素材集の発行者はぜんぜん関知していない。なので「ビジネス・シーン」といえば、猫も杓子も、肩と耳で受話器を挟んだアクティブな様子の白人モデルとノートパソコンが出てくる。
知っての通り、殆どの日本の「ビジネス・シーン」には、モダンで小奇麗なオフィスも、スラリとした八頭身のOLも、モバイルパソコンも、忙しそうに肩と耳で受話器を挟んで話すエクゼクティブな白人も、立派な髭をたくわえたショーン・コネリーみたいなカッコ良い上司も、高層ビル群が見渡せるレストルームでスターバックスを片手に談笑する風景も、マイクロソフトのパワーポイントが映し出されたスクリーンにレーザーポインターを当てて「プレゼン」をするプレゼンターも、出てこない。
そんなアホな風景は結局「絵に描いた餅」、幻影に過ぎず、少なくとも私にとっては「シゴトしていない」のと一緒である。
「シゴト」とは、常に理不尽な空気の中にあるものだ。人間臭くて不合理で気まずくて何度でも恥をかかなければならない。恥をかき続ける状況が「シゴトをしている」状況だと私には思われる。働こうとするニンゲンが「泥臭さ」や「恥」を払拭することなど、到底不可能に思われる。
海外のビジネススタイルや、トレンディードラマの主人公たちや、六本木ヒルズの企業家たちが、どこにでもあるビジネスの現場風景をビジュアル化した感がある。ところがそんな風景は実際にはどこにもない。ほんの一握りのエクゼクティブな職場環境がスタンダードみたいな顔をしてのさばっているだけだ。つくづく欺瞞だと思う。職場環境が汎用性を備えているという認識そのものが欺瞞なのである。
職場(ビジネス・シーン)は、貴賤もさることながら、それぞれがまったく異なる局地的世界である。
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- 2008/05/10(土) 10:49:43|
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客と話している時に、客の視線が私の胸にとめた名札へチラリチラリと動くのをよく見る。
人と面と向かって話していると、相手の眼球の動きがよくわかるものである。ふと、そう思った時、女性のふくよかな胸元へチラッと視線をやるのが、実はあからさまに女性にバレている、ということに気づいた。
「盗み見」のつもりでも、ほんの瞬間的な眼球の動きでも、それは相手からしてみればむしろ露骨なほどなのである。なぜ胸元を見せる服があるのかといえば、そういう意味なのだと思う。女性は男性の視線が自分の胸元へ注がれることに矜持とか優越とかを感じるのであろう。
それに気づいて以来、強いて私は女性の胸へ視線をやらない努力をするようになった。勿論、もともと女性の胸をチラチラ見るほど不見識ではないのだが、1度だけでもそこへ視線をやれば相手に判ってしまう。だから、1度も、ほんの瞬時も、それを見ない努力が必要なのである。商売柄、着飾った(胸元のあいたドレスの)女性と話す機会も多くあるが「ぜったい見ない」と決めてかかると案外できるもんである。ひょっとしたら胸を見ないなんてカンタンにできるとあなたはお考えになるかもしれないが、1度たりとも見ない、というのはなかなか難しい。チラッと見ただけでタイホされるわけじゃないし、見ておいて損はないし、見逃せば後悔するかもしれない。普通の男性ならそう考える。結局、全くそれを見ないことに具体的な意義を見いだせないので、とりあえず1度くらいは見ておくのである。
エイリアン(地球外生物)を扱った洋画でこんなシーンがあったのを覚えている。
その映画に出てくるエイリアンは人間そっくりに変身できる能力をもっていて、いったん変身してしまうと、それが人間なのか化けたエイリアンなのか、わからない。エイリアンが化けていると疑わしい男性に、女性記者が咄嗟(とっさ)の奇策を思いつく。わざと彼の前にペンを落とす。ペンを拾おうとして、前屈みになったときに胸元が大きく開く。男性にとってそんな絶好の瞬間を見ないのはエイリアンに違いない、という理屈である。男性は女性の前屈みの胸元にいささかの関心も示さず、案に落って男性がエイリアンだということが判るのである。
つまりこれがどういうことかと言えば、女性の胸を盗み見ない(ヘテロセクシャルの)男性は、地球外生物であると言っても過言ではないほどオカシイということなのである。見なければ地球外生物と思われるほどにオカシイのだから、それほどまでにオカシイのであれば、それを実践するのは難易度が高く、翻って(ひるがえって)大いに意義があること、と言えはしまいか?
私は男性だし、魅力的な身体上の特長も無いが、最近、私のとある部分を見る人の視線で気になるものがある。
相手はチラリチラリと私の額と頭髪のあいだの生え際を見るのである。
テーマ:ひとりごとのようなもの - ジャンル:日記
- 2008/04/29(火) 23:06:27|
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