<この記事は常に先頭にくるようにしています> 私達のごうまんさは、波乱万丈の生涯をおくった、あれやこれの人傑に感化された結果かもしれない、と思うことがある。
まだその犯罪が顕在化していなかった時分、例のカルト教団の教祖は、キリストが受けた弾圧を、そのまま自らの教団が受けている悪評になぞらえていた。
あのキリストも世間から変人あつかいされていたのである、よって、我々教団のやり方が世間から向かい風を浴びるのは当然だ、と、弁解していた。
そのような不遜なエクスキューズの小規模なものが私達のなかにもあって、ことある毎に心のなかで、自分が尊敬を寄せる有名な誰某をひきあいにして、あの人だって最後には理解してもらえたのだから、私のやったこともいずれは許容されるだろうと、希望的観測をしているのかもしれない。
自分というものは、なかなか見切れないものである。
昔からなんとなくそう感じていたが、この世のなかには、君には可能性があるだの、金の卵だのと、はやしたてる人間はあまたいても、おまえにはぜんぜん才能が無いのだからやめろと言ってくれる人間はひとりもいない。 もちろん未だ乳児のあいだに親に殺される者もいる。大人の骨格を備えるまで、親に殴り続けられる者もいる。しかし少なくとも中産階級の人間はそうだ。親に精神的に屠られる者もいるが、同時に無責任な期待をかけられ、育つ。
おかげで、今日び、世の中の人々は猫も杓子も自分には才能があると思っている。
どこかの新興宗教のお題目よろしく、自分は限りのない可能性に満ちていると思っている。成人すれば親の所為でも誰の所為でもない、すべてが自分の所為だ。
それは個性を尊重する風潮のせいであるetcなどと、テレビ討論会の諸先生みたいにイデオロギー批判するほど私も立派な人間ではないから、せいぜいが、将来、自分のコドモに「公務員になりなさい」と警告するに過ぎないだろう。
ともかく、かんがみれば平生、私達は絶対に誰からも否定されない世界に住んでいる。間違いだからやめろとかムダだからやめろと総てを最終的に否定する言葉は誰からも言われない。そして言わない。
そういうしたたかな障害に遭遇することなく、私達はみんながみんな、ひょっとしたら
ぜんぜんダメかもしれない自分の考えたやり方で生きている。
- 2020/01/01(水) 00:00:00|
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横断歩道がある交差点で、車が右折又は左折すべく横断歩道を渡る歩行者の通過を待っている時、歩行者のスピードは必ず速まる。
時には小走りになる。
何故だろう?
交通ルールに照らしてみればここは歩行者優先の局面である。車は人間様が道路を横断するのをじっと待っていなければならない。
優先順位が上にあるにもかかわらず、歩行者は、まるで車の進行を侵害しているかのようにそそくさと道路を横断するのである。なにも小心な人だけがそうするわけではない。普段、威張り散らしているような人でも、概ね誰もが歩みを速めるのである。
これは相手が車だからである。
人間は鋼鉄でできた車にかなわないから、そそくさと、まるで自分が悪いみたいに速歩(はやあし)になるのである。車を運転している人間が自分より年下で未成熟であっても、それは変わらない。相手は車だから、それを運転している人間のレベルは無関係になる。
加えて、
車を運転している時の人間の状態も、歩行者は知っている。多かれ少なかれ自分も車を運転している時はそうだから、だから尚更、速歩になる。
車で右折又は左折しようとして歩行者の通過を待っている時。まるで、運転主の私やあなたが「偉い人」であり、その進行を妨げるのは良くないことだと言わんばかりに、二足歩行のニンゲンたちが浮き腰で通過してゆくのを見守る時。これは我々の社会の基調ルール、謂わば縮図のようなものだ、とつくづく思うのだ。
人は強いものに対して弱者の態度をとる。弱いものに対して強者になる。恐い車のように、御しにくい人には服従するし、御しやすい人には喰ってかかる。
運転席から歩行者を恫喝するような奴、権力や性情の優位を威に人を蔑ろ(ないがしろ)にするような奴は、絶対に、人間らしい生き方、死に方はできない。
強ければ強いほど謙虚であるべきだし、弱くても立場を主張すべきだが、そんなことができる人間はあまりいない。
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- 2009/11/20(金) 00:10:34|
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日本人が犯人ではないので、この事件の犯人は見つからないだろう。
手口が残虐過ぎる。残虐なのは数多あるが、残虐性が飛び抜けている。
この国で凶悪犯が捕まり、いったいどんな凶悪な奴なのかと見たとき、犯人は子供とか未成年であったり、精神分裂症とかその類の精神疾患に陥っていて、何か拍子抜けするような場合がほとんどである。
そして結局は、彼らがその事件で見せたような残虐性を必ずしも日常的な身上とはしていなかったことが分かる。
しかし、この事件の犯人像は残虐性を業としているかのようにあっけらかんと残虐である。テロの要素も、宗教的な気配もなく、被害者との接点も推し量れない、ただひたすら残虐なのである。ちょうど、あの上祖師谷三丁目一家4人強盗殺人事件(世田谷一家殺害事件、2000年)のようだ。
やり口が冷静というか無機的である。無造作でもある。世田谷の事件で犯人は4人を殺した後にアイスクリームを4つ食べ、一家のパソコンを使いネットサーフィンをしている。あの無機的な感触がこの事件の犯人像にもある。執拗な遺体損壊に感じられるのは精神の異常さよりも、人体に対してたんに「作業」をおこなっているかのような無機質さだ。
極めつけに残虐な事件は、最終的には犯人が見つからない。世田谷の一件のように犯人が日本人でなく特定の外国人であった場合、見えない管制が布かれ、なにもかも霧散するのが我国の慣例だ。キ印の民族が私たちの国中いたるところに暗躍し、凶悪犯罪を司っている。が、まもなく彼らは与党から参政権を与えられるだろう。
なお世田谷の一件では「アイスクリーム4つ」が、薬物の禁断症状の顕れ、一種の飢餓状態における甘味欲しさだったという見方があるが、その銘柄が「サーティワン」だったかどうかは発表されていない。
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- 2009/11/13(金) 00:40:30|
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つい先日、逮捕の直前に、千葉大時代に容疑者と面識のあった東農大の客員教授が、まだ逃走を続けていた彼に宛てて、自らのウェッブサイトに手紙を公開した。
教授と容疑者の接点は、週二回、一年間ほど『ただ園芸学部の道場で一緒に空手の稽古に汗を流しただけ』だったのだが『稽古の後はシャワー室でシャワーを浴びて、研究室や教室に戻る前に更衣室で着替えながら雑談をするという何気ない活動』の中、卒業したらどうするのか将来についての会話を交わした、とある。
教授のウェッブサイトは農薬や食品添加剤に関する専門的な話題で占められたきわめて質実なサイトである。門外漢の私が見ても、もちろん何のことか分からないが、サイトの掲載内容が横道に逸れず、プロパー外に読者を獲得しようという媚びがまるで無く、終始一貫して農薬やそれに付随する話題のみなので、なんとなく教授の生真面目な為人(ひととなり)を想像できる、そんなウェッブサイトである。
その飾り気のないウェッブサイトのトップページに「○○君に告ぐ」という前述の手紙が公開されたわけである。手紙は穏やかで、知性が感じられ、納得できる内容である。容疑者のいた学園の近影が貼られ『ちょうどA棟前のサンクガーデンや生協前広場のサルビアの鮮やかな赤い花が最盛期です。正門の上の猫は野良猫で、近所に餌をやる人がいるものだから、何匹も住みついて困っています。』と、郷愁をさそうくだりもあって『もし君がこれを見る機会があったら、連絡して下さい。君と是非話をしたいと思っています。』と、結んでいる。
公正で思慮深い手紙だと頷けるのだが、ただ文中に『報道されているような事件を犯したのだとしたら、彼女との間によっぽど君の尊厳が傷つけられるような何かがあったのだろう。』と言い切っていて、なんとなくそれが過激だと感じられた。
断言しているのが過激なのではなく「彼女との間によっぽど君の尊厳が傷つけられるような何かがあった」と限定しているところが過激なのである。
人が人を殺した場合「よっぽど加害者の尊厳が傷つけられるような何かがあった」とは言い切れない。もっと俗っぽいこと、例えば金とか女とかで殺人を犯す場合のほうが多いからだ。
私は、教授と容疑者の接点が寡ない(すくない)とは思わない。週二回、一年間、空手の稽古を一緒にやりシャワーを浴び更衣室で雑談する、男と男が知り合うのに充分な接触を経ていると思う。したがってこの手紙が容疑者の良心についてうがち過ぎているとは思わない。文中にも『○○君、君はいったいどうしてしまったのだ。』とか『今の君が何に影響されているのかわからないけれど、自分自身の心をとりもどして下さい。』などとあり、容疑者本来の姿をいささかも疑わない教授の思いが汲みとれる。教授は何気ない時間のうちに容疑者に男らしさを見たのだと思う。
男らしさと言えば、潜伏先だった西成区の建設会社でのストイックな寮生活ぶりもずいぶん男らしい。
『給料は月額25万円程度。家賃と食事代を差し引いた10〜15万円を手渡しで受け取っていた。寮ではいつも黒縁のめがねに赤い野球帽を身につけ、食事の際も帽子を取らず、風呂にも必ず一人で入っていた。普段は半ズボンに白いサンダルを履いていることが多く、休日のほとんどを寮で格闘技の漫画やビデオで洋画などを見て過ごしていた。同僚らに「目標があるので金をためたい」と話した。姿を消す数カ月前に仕事仲間とボウリングに行き、集合写真を撮った際は人影に隠れるようにしていた。幹部の男性は、容疑者がいつもメモ帳を持ち歩いて作業方法を書き込み、重い資材も自ら進んで持とうとする姿が印象に残っているという。』
不謹慎を承知で言えば、まるで昔の日活映画の暗い過去を持つヒーローのようである。人に言えない枷、独特のポリシー、高倉健が適役である。2chでは既に、容疑者の生活力の旺盛さ(裸足で現場を逃走したにもかかわらず、人混みに紛れ、整形費用を捻出し生活基盤を築いた)や、素人が国家権力から2年7ヶ月逃げ続けたことなどを英雄視して盛り上がっているようである。
手紙の『彼女との間によっぽど君の尊厳が傷つけられるような何かがあったのだろう。』のくだりが過激だと感じられないのであれば、殺されたのが日本人女性だった場合を考えてほしい。
同国人であれば、つきあいのあった教授といえども『彼女との間によっぽど君の尊厳が傷つけられるような何かがあったのだろう。』などと限定した物言いをしないだろう。男同士といえども他人の女性に対する執着心を知ることはできないし、まして同国人女性被害者の遺族のことを考慮すれば、大学教授たる人が「君の尊厳が傷つけられるような何かがあった」とは到底言えない筈である。
つまり教授は被害者の人種のことを念頭に置いて手紙を書いているのである。「アーロン収容所」の一節に、こんなくだりがある。
『植民地人や有色人はあきらかに人間ではなかったのである。それは家畜にひとしいものだから、それに対し人間に対するような間隔を持つ必要はないのだ。』
言うまでもないが「アーロン収容所」は京都帝国大学文学部副手であった著者(会田雄次)が1943年に応召しビルマ戦線に歩兵一等兵として従軍、イギリス軍の捕虜となり1947年に復員するまでラングーンに抑留、その時の捕虜体験を基にして著された、現在まで87版を重ねる名著である。
『その日、私は部屋に入り掃除をしようとしておどろいた。一人の女が全裸で鏡の前に立って髪をすいていたからである。ドアの音にうしろをふりむいたが、日本兵であることを知るとそのまま何事もなかったようにまた髪をくしけずりはじめた。部屋には二、三の女がいて、寝台に横になりながら『ライフ』か何かを読んでいる。なんの変化もおこらない、私はそのまま部屋を掃除し、床をふいた。裸の女は髪をすき終わると下着をつけ、そのまま寝台に横になってタバコを吸いはじめた』
『入ってきたのがもし白人だったら、女たちはかなきり声をあげ大変な騒ぎになったことと思われる。しかし日本人だったので、彼女たちはまったくその存在を無視していたのである』<「アーロン収容所」より>
私は、程度の差はあれ、白人というのは無意識に有色人種を蔑視していると思っている。「差別」というような大仰なイズムではなく白人にとってみればそれが普段着なのだ。
結局、容疑者はこの英国人女性に結婚か交際を申込み、それを「尊厳が傷つけられる」ほど無惨に断られたのだと想像することができる。
教授もそれを想像している、それを想像しているのでなければ『彼女との間によっぽど君の尊厳が傷つけられるような何かがあったのだろう。』などと断定的な言い方はしない。男性と女性の間にあるのは最終的には情交も含めて交わるか交わらないかであって、たんなる交流や交友に属することに「尊厳が傷つけられる」ほどの関係はないからだ。
否応なく実ってしまった恋愛感情を無下に拒絶される。まして白人の潜在的なレイシズムについての事前知識もなく、純情であったならば、それは恐ろしく過酷な体験だったに違いない。反面、告白された英国人女性は撥ね付けた日本人男性に対して少しも良心が痛まない。恋愛に変化しようとするところで突然あらわれた冷酷な態度。その恐怖と衝撃が彼の反骨心となり、逃亡を命懸けにさせた。整形してでも、どこまでも逃げてやる、という頑なな決意を育んだ。……というのは無論、憶測である。
エレベーターの防犯カメラがとらえた容疑者の動画、彼はエレベーターの鏡で、髪や着衣や後姿を入念にチェックする。はじめその姿にナルシスティックな印象をもったのだが、今はそうは思わない。私も教授のように「尊厳が傷つけられるような何かがあった」と考えている。
無論、尊厳を傷つけられたら人を殺してもよいわけではないが、教授は容疑者の人格を全く疑っていない。黄色人種が白人の潜在的レイシズムを知らずに恋愛感情を吐露するのは純情が過ぎるが、人種の問題に関係なく、本気になってしまっている相手を無下に拒絶するのは利口とは言えない。
私は今になって考えてみれば退屈な日本人女性に無惨に拒絶された恋愛過去が幾つかあって、総ては憶測に過ぎないのだが、この考察に基づいてみると、容疑者には無責任な親近感を感じるところがある。
『それは家畜にひとしいものだから、それに対し人間に対するような間隔を持つ必要はないのだ。』というアーロン収容所の一節が、奇しくもニベもなくフラれた時の惨めさをよくあらわしていて、教授が指摘する容疑者の『尊厳が傷つけられるような何か』には大いに興味をそそられる。
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- 2009/11/11(水) 23:12:49|
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あっさりと「やりたくないことはしない」と言ってのけるヒトが増えた。
柔道では勝ってもガッツポーズはしないのが礼儀である。柔道は元来スポーツではなくて「道」だから、敗れて倒れ悔しがっている相手にガッツポーズを見せるのは礼節に反するという理屈がある。まともな師範なら弟子や生徒にガッツポーズをしてはならないと戒めるだろう。
そもそもそんな諫言を受けなくても、負けた人の前で喜びをあらわにするのは気が引ける、というのがマトモな人間の感性である。
ところがテレビに出てくるような大選手でも、今や、敗者の眼前で平気でガッツポーズをつくる。
スポーツ選手が誰に向かってガッツポーズをするのか知らない。ただ、そんなものを見ると「無邪気だなあ」と思うだけだ。
ゴールしたサッカー選手が、大地にキスしたり胸の十字架に口づけしたり、およそ日本人として考えられない方法で喜びをあらわにしていることがしばしばあるけれど、そうやってただ単に、外国人のカッコいいガッツポーズを真似ているだけなのかもしれない。
しかし、脚光を浴びるスタープレイヤーに劣らず、私だって忙しい。ガッツポーズをつくった回数で競えば私のほうがずっと多いんじゃないか?ただしそんなものは誰も見ていないところでつくるんだ。
「やりたくないことはしない」が、精神衛生のための素晴らしい態度として庶民に受け容れられている。なるほど、やりたくないことはしなけりゃいいというのなら、精神も衛生的に保てるに違いない。しかし、そんな破廉恥(ハレンチ)なことを人様にわざわざ言う必要があるのだろうか?
だいたい「やりたくないことはしない」がどれほど破廉恥な発言か、発言者は理解しているのだろうか?
「やりたくないことはしない」ってことは「やりたいことしかしない」ってことだ。「やりたいことしかしない」ってことは、ワタシは本能のおもむくままに生きますと宣言しているに等しい、本能のおもむくままに生きるってことは、端的に言うと、ワタシはケモノです!サルなんです!とカミングアウトしているようなもんだ。ワタシには理性なんかありゃしません、ケモノなんだからやりたいことしかしないんです、と。
日々、小規模又は大規模な「やりたくないこと」が私たちの日常生活の前に立ちはだかる。
やりたくなくても、それをやらなければ生きていけないという人が、地球上には何十億人もいるだろう。「やりたくないことはしない」という発言が、根本的に破廉恥なのは、やりたくないことでもやらなければ生きていけない人間をいっさい考慮していないからだ。やりたくなくても、やらなければ生きていけない人間が地球上に何万人、何十万人、何百万人、何千万人、何億人、何十億人もいるという事実を完全に蔑ろ(ないがしろ)にしているからだ。
「やりたくないことはしない」という精神衛生上の個人的処方を人様に向けて発信なり紹介なりできる立場はたいへん結構だけれども、そんなことは人様に言わなくてもいい。ぜんぜん言う必要が無い。やりたくなければしなくてよい立場を得た自らの経済的成功を、ひとりで自得し、かみしめていればいいのであって、それに関して、およそ誰に対してもガッツポーズなどつくる必要はない。人前で平気でガッツポーズをつくる人は、人様に向かって平気で「
やりたくないことはしない」と言う人である。
これはさいきんの成功者(勝者)に共通する特性だ。
破廉恥なまでに自分の存在を主張するからこそ勝つんだろう、と思うし、結局みんな寂しがりやなんだろう、とも思う。
- 2009/10/05(月) 13:35:47|
- 創作格言
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私にとって地域のボランティア活動「消防団」は、日常生活を蝕む(むしばむ)苦痛であり、枷であり、目の上のたんこぶであり、「文化的で最低限の」という形容で知られる人間的生活の保障が悉く(ことごとく)蔑ろ(ないがしろ)にされる過剰で非情なボランティア活動である。本業だけで休日すらままならない私にとってはなおさらそうだ。
仕事、人間関係、自治体。
私たちの社会では、男は少なからず自分の生きたいようには生きられない、女性のようには。男が生きたいように生きるなら社会性を捨てなければならない。その不公平感がしばしば私の女性観をキツくさせる。私には沢山の欠点があるし、また前妻に未練はぜんぜんないけれど、消防に属していなければ結婚生活はもっとずっと長かった、とは思う。
消防が嫌いな私とっては、消防団活動が活発な地域で消防団に属しているということは囚人に等しい。じっさい囚人そのものの生活だ。消防を辞めたら叶えようと思っている夢が私には山ほどある。もちろん消防を好きでやっている人たちは山ほど存在する。そういう普通の人たちは、地域社会における消防団活動について、もっと一般的で有意義なことを言うだろう。曰く「かけがえのない仲間ができる」とか、「訓練によって社会性が身につく」とか、「自己のアイデンティティを確立する」とか・・・
そんな戯言が信じられた時代が私にもあったしそれらは嘘とは言えないが、もはやどうでもいいと感じられる。
たとえば、仕事以外の団体に属していて、集合場所へ車で行かなければならない、そこで使うガソリンとか所要時間とか又はそこで起こってしまった自動車事故とか、そういうものをどう解釈するのか、ということである。
どんな活動であれ、やらなくていいものなら、ぜったいにやらないほうがいい。地球にとってずっといい。健康や精神衛生にもいいし、もしいるなら妻や子供にとってもいい。
現代人の課外(的)活動はCO2の排出量を増大させるだけだ。少なくとも私は私にとって余計なことをやり過ぎである。やらざるを得ない余計なことが私には多すぎる。消防をはじめ引き受けなければならない役がありすぎる。なぜ放っておいてくれないのか、わからない。
消防団で私が唯一学んだことは、
人は「やる気」が一切無くても、まるで「やる気百パーセント」のようにそれをやることができる、ということだ。
人は年を負うごとに欺瞞のネタが仕込まれる。
- 2009/09/29(火) 09:51:48|
- 創作格言
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安いワインは存在します。それらは明らかに不味い。安い日本酒も安いウィスキーも安い焼酎も存在するけれど、日本酒なら燗したり、ウィスキーや焼酎ならロック、水割り、烏龍茶割り等々、飲み方がアレンジできるから、安さが理由の不味さを、さほど意識しないで済むのではないか、と思います。けれども、ワイン(赤ワイン)はそのまま常温で飲む。だから不味さも際立ってわかる。酒屋に、紙パック入りのワインが何種類もあるんですが、どれを飲んでも不味い。けれども経済的な理由から、常飲可能なワインといったら、紙パックに入っているものしかないから、それを飲みますよ、嫌でも。結局コレはどういうことか考えたら、日本の人々はやっぱり、ワインのクオリティーに鈍感である、ということだと思うのです。だってこんなに沢山、不味いワインが商品棚に並んでいるんだから。私も紙パック入りには間違いないけれど、紙パック入りでも最高値のワインを飲んでいましたが、どうしても途中で断念せざるを得なかった。「ダメだ、とても飲めん!」と言って諦めました。料理酒か、ワイン風呂にでもしようかと思います。ワイン以外の酒で、不味さゆえに「ダメだ、とても飲めん!」なんてことは無いですよ、普通。とにかく、今夜だってコレでしのごうと思って買った1.8リットルの紙パック入り赤ワインだったのですが、750mlほどで「ダメだ、とても飲めん!」と実際に独語して、断念しました。有機栽培とか、色々な謳いのある最高値の紙パックワインだったんですがね。やっぱり不味かったです。なんなんですかね、この不気味な甘さは?逆に言えば、よく一本分の750mlを飲んだというものです。半ば冗談、半ば本気で、塩、振ってみたんですが、やっぱり不味かった。このワイン、塩っ気が欲しかったんですよ、マジで。
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- 2009/09/16(水) 02:56:49|
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選挙のとき、日本共産党が「二つの聖域」にメスを入れると喧伝していました。一つ目は軍事費、大型開発への予算削減。二つ目は大企業、大資産家への優遇税制をやめる、というものです。この共産党独自の財源論が実現すると、消費税増税に頼らなくとも12兆円が確保できるという公算です。この論が正しいか正しくないかわかりませんし特別の興味もありませんが、軍事費カットと大企業減税ストップというのは、かならずしも「聖域」と呼べるものではありません。今まで誰も触れてこなかったから「聖域」という呼び方をするのだとは思いますが、それは「自民党が侵さなかった領域」であって「聖域」ではないと思うわけです。結局こんなのは聖域と呼んでもたいした聖域ではありません。ホンモノの聖域ではないという感じです。ではいったい本当に「聖域」と呼べるものは何かといえば、それは、言うまでもありませんが「公務員の給料」です。公務員の給料を民間企業並みにすると消極的に見積もっても20兆円の余剰財源を確保できます。公務員の人数と、彼らが幾らぐらいの給料をもらっているか、それらを何となく知ってしまうと、あとはかけ算が出来るだけで、私やあなたの支払った税金の大部分が何処へ行ってしまうのか小学生にでもわかります。すなわち言うまでもありませんが、
納税の大部分が実は公務員さんたちの給料の支払いに充てられています。公務員の誰某が高級外車を買ったとしますと、あなたは間違いなく、その高級外国車の支払いに貢献しています。私たちが公務員を食わせているという言い回しは実のところ些かも婉曲ではありません。当然こんなデリケートな部分には誰も触れませんから正に聖域です。日本の赤字の原因は、天下り公務員の給与と、公務員の民間企業での高待遇確保が殆どです。こういう不可侵なもの、みんなが飢え死にしたって国家が傾いたって守られる領域、それを聖域と言うんです。ところでこれは(言うまでもありませんが)天下り官僚が憎い!とか公務員が大キライ!とか政治がダメだ!とか金返せ!とか言いたい文ではなくて「聖域」という言葉についての文です。
- 2009/09/06(日) 14:29:11|
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悪いことをして捕まった有名タレントがニュースを飾ると、それを攻撃するあまり有名でないタレントが必ずあらわれる。また、それを擁護するあまり有名でないタレントも必ずあらわれる。
攻撃者はバッサリ切り捨て。でも常識と人道的見地に即している意見には人気が集まる。まあ普通だ。
捨てる神がいると、拾う神がいる。
擁護派はどこにでもいて、悠揚で寛大な解釈が、とりあえず人々の目を惹く。人々はその意見に触発され、こんな風に思う。「なるほど、そんなに目くじらたてて怒ること無いのかも……」
しかし、捕まったのは有名タレント、攻撃するのも一応タレント、擁護するのも一応タレント。
攻撃的に糞味噌に貶せば(けなせば)ブログの来訪者数や認知度が稼げるのかもしれない、また擁護してもブログの来訪者数や認知度が稼げるのかもしれない。
誰が何を思うのか知らない。
誰もがとりあえず名を知られたタレントの意見に共感する。でもそんなタイクツな意見を見る(聞く)までもないだろ。自分自身の意見はないのか?マスコミを通じて発表された誰かのコメントに共感するのが私やあなたの人生なのか?その事件に対して誰がどんな解釈をしようと、私は私だけの、あなたはあなただけの、解釈をもっていればいい、そう思う。思いませんか?
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- 2009/08/15(土) 00:23:47|
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さいきん、というか、だいぶ前からだと感じるが、若い女性が(あるいは若くない女性の場合もあるが)ごく自然に「こわ〜い」と発言するようになった。何が『怖い』のかといえば、人の(特に男性の)カオや態度や動作をさして言うのである。私など、何もしなくても「こわ〜い」と言われる。
まあ、侮辱だと思う。
ところで、この「こわ〜い」の「わ」と「い」の間に「〜」があるのは、誇張表現ではない。さいきん女性が「怖い」と発言すると、だいたい(十中八九)「こわ〜い」となる。
腹が立ってしょうがないし、ほんとのところ「ナニが「コワ〜イ」だ!アホ!」と言ってやりたいのだが、(女性は)みんなそうだから「こわ〜い」と言われても、ただニヤニヤ笑ってやり過ごす他はない。私(というか、男たち総て)は「こわ〜い」の発言者に対して相当、譲歩しているはずである。
だいたい、意図して怖がらせているわけでもないのに「怖い」などと言われる筋合いは無い、というのが男性側の「こわ〜い」発言に対する反発心の骨子である。なぜ(時としてよく知りもしない女性から)「怖い」評価を受けなければならないのか、マジでわからない。「なんでオマエなんかに「こわ〜い」なんて言われにゃならんわけ???」と言いたいところなのである。
ところが「こわ〜い」でムカッときてしまうと、また更に「こわ〜い」と言われ、まるで害を加えられたかのように戦かれて(おののかれて)しまうので、結局、ただニヤニヤ笑ってやり過ごす他はない。
この構造は「こわ〜い」発言した女性側に極めて有利に出来ている。男性を「こわ〜い」で煽って(あおって)おきながら、その煽りを男性が真に受けて思わず気色ばもうものなら、また「こわ〜い」となおさらに怖がる態度をとる、そうなると、もはや(真に受けてしまった)男性が醜態をさらしたに過ぎないという結末しか待っていない。
なぜ女性はこのような不遜(ふそん)な煽りを男性にするようになったのだろう?
女性たちは、第三者に対して自分を可愛く見せる、また、実際的年齢よりも幾分若く思わせるのに「こわ〜い」発言が効果的だと考えている。もちろんこれは
根本的な間違いだし、場合によっては敵意や憎悪を買うだろう。ところが「こわ〜い」の発言者は、「こわ〜い」と評価された男性から、少しも反撃されることが無いまま、その男性よりもはるかに優位に立てる。といって男性が「草食系」だから、とかそういう今様の風俗を反映しているからではない。
現代社会では、男と女、双方に特殊な属性のない状況においては、圧倒的に女にイニシアチブがある。
あなたがこの広いインターネットで、この拙文(せつぶん)に辿り着く(だどりつく)までに、いったい何人の綺麗な女性(の画像)を見たことだろう?あなたの操るブラウザが、IEか、ファイアフォックスか、クロームか知らないけれども、とりあえずポータルを開けば、そのどこかに、魅力たっぷりの女性があなたに微笑みを投げかけているに違いない。
あなたはこのお盆休みにいったい何人の女性のカオを画像検索しただろう?インターネットを操っていると、わいせつと分類されるものと、有名タレントの間にどんな差があるのか、判らなくなる時がある。写真集や雑誌のグラビアにとどまらず、バラエティー番組で芸人顔負けのトークを展開するアイドル云々、
今の世の中は女の子たちの自己顕示欲にとりあえず付き合う姿勢なので、その類の色物の女の子たちが嬌声をはためかせながら続々と世に出てくる。パソコンの性能の向上が日進月歩と言われて久しいけれど、女の子たちの表舞台はもっと早くてもっと短い。いつだって誰かがどこかで○○が脱いだと狂乱しているし、いつだって○○を脱がせた出版社が「ついに」を冠してそれを熱狂的に報告している。
広告でヒトの目を引く三原則とは『3B』、すなわちbeauty、beast、babyである。あきらかにその傾向が露わなのがYouTubeだ。Frozen Grand Centralのような大がかりな仕掛けをしなくても、マギボンのような可愛い女性(beauty)か猫(beast)か赤ん坊(baby)ならガンガン視聴が稼げる。自分で飼っている猫とか、自分で生んだ(肖像権も主張できない)赤ん坊とか、あるいは自分そのものを撮ればいいなら、こんなラクなこともない。ひょっとしたら作成者はYouTubeに委ね(ゆだね)、YouTubeで膨大な視聴を稼いだモノに自信を持っているかもしれない。
今日日、女性は、綺麗なら、あるいは若いなら、その内面にかかわらず、もてはやされるものだ。
それらの数多(あまた)の現代社会の実情を見たオナゴが「自分はもてはやされているのだ!」と信じ込んでしまっても罪は無い。事実上、現代社会において、綺麗な女性は「ただそれだけ」で、もてはやされる。
どのような経緯でこうなったのか、具体的には判らないが、マスコミを筆頭として、今の世の中が女の子たちの自己顕示欲にとりあえず付き合う姿勢なのは確かだ。そういう世の中の傾向を悟った女性たちは次のように考えるようになった、のかもしれない。男性は女性と一発ヤるという果敢で原始的な野望を、常に持っているわけだから、ちょっとやそっとのことで、女性に辛く当たることは無いだろう……今日日の女の子たちにはそういう(安直だけれども絶対的な)打算と確信があるからこそ気安く男性を煽ることができるのかもしれない。
しかしもちろん、当たり前のことだが、どんなに媚びを売ろうとも、また、どんなにお行儀良く振る舞おうとも、自己顕示欲旺盛な女性と一発ヤルなんてことは、そうそう叶うことではない。賭けてもいいが、どんなに馬鹿な男性といえども、そこまでうがった期待をしていることは、絶対にありえない。もし期待しているとしたら、精神異常者だし、実現しようとしているなら性犯罪者である。
つまり男性は、女性の有頂天に対して相当譲歩しているのである。
大原麗子は根っからぶりっ子で、松田聖子がそう称されるずっと以前から、ぶりっ子などという言葉が開発される以前から、ずっとぶりっ子だった。謂わばぶりっ子元祖な大原麗子に「こわ〜い」と言われたら腹も立たないだろう。
思うに「こわ〜い」の発言者は、自分に他人を「こわ〜い」と評価しうる権利(とでも言うべきモノ)があるのか、ないのか、真剣に考えたほうがいいと私は本気で思う。大原麗子の死体は発見された時には二週間経っていたので「孤独死」と報道されていたのだが、いったい女優と呼ばれるヒトが自らの死を世間に喧伝したいと思うだろうか?死んでから幾日かして発見されるからこそ女優ではないのか、それを孤独死だ、などと……
まあ、侮辱だと思う。
私は、生前に墓をつくっておきたいのはもちろん、もう死にそうになったらそこに入るように自宅に棺桶を備えておきたい。
みんな、性的魅力が効かなくなった後のプランを考えよう。もし自己顕示欲が旺盛なら、なおさらそれを真剣に考えよう。人は老いる。死ぬまで際限なく。
暑い。日本中どこでも夏だ。そしてどこでも盂蘭盆会。おもてに出ると生ぬるい空気とともにどこからともなく線香の匂いが漂ってくる。死者たちを迎える日本の夏、
私やあなたの肉体が生ける者たちによって弔われるのも星々ほど遙かな未来ではない、そう思う。
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- 2009/08/13(木) 22:50:40|
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先日、とある会合があって、懇親会があって、その後、お定まりのごとく二次会へ流れた。私もお酒が嫌いではない。ついて行ったら、連中の行きつけだったらしいそのスナックに、新しいホステスが入っていた。その娘がめちゃくちゃ綺麗だった。いつの間にやら彼女は囲まれていて、男たちは半ば興奮気味、結構盛り上がった。綺麗なだけじゃない。フェロモン出しっ放しで、寄りかかる、触る、叩く、そしてなにしろ喋る喋る。東京人というのがまた我々地方の男たちの羨望を煽った。経験した男、数知れず。都心でOLしていたころは目が覚めてみたら男の部屋だったなんてのがザラだった、というような話を、幾分婉曲にせよ、喋る喋る。むこうで(東京で)いろんなことがあって嫌になってこっちに来た、というので、おおかた大勢の男たちの熱情を捌く(さばく)のに疲れてしまったのだろう。逃げてきたようなものだが、そんな悲壮感は微塵も無いし、男好きも変わっていない。媚びる媚びる。一番笑えたのがOL時代の上司の逸話で、アシスタントで出張プレゼンについていき、宿泊先で食事を摂りながら言われたというセリフ「それはそうと君ィ、いっぱつやらしてくれるんだろうね?」である。驚いたことにじっさいやらせたというので男たちも更に興奮、大いに盛り上がった。
ところで、このような状況下の二次会では先にふけるのが簡単だ。みんな彼女に夢中だから「まだいいじゃないか」なんて言われないし、帰るのを妨げられずに済む。私は役員たちへの挨拶もそこそこに、そそくさと先に帰り、寝た。
世の中にはSEX(性行為)が日常的である人とそうでない人がいる。彼女に比べれば、私など食用に飼われている牛か豚ていどの性体験しかない。食用に飼われている牛や豚は狭い檻で短い生涯を費やす。ところが、性的な体験が豊富であること、または貧弱であることが露呈してしまう場面は普通の社会生活のなかには殆ど無い。無論、性行為に直面すれば相手の知るところになるのかもしれないが、それは少なくともその相手にしかわからない。性行為をおこなった彼または彼女が、相手の性体験の豊富さ、若しくは貧弱さを誰某に喧伝してまわるわけではない。あるいは喧伝してまわる輩もいるのかもしれないが、内輪話でしかない。
職場には若いアルバイトの女の子が山ほどいる。私は無表情で彼女らにルーティンな仕事を言いつけながら、ひょっとしたら彼女は数時間前まで男のちんぽこを咥えていたのかもしれない、などと考えてみることがある。当然、欲情してそんなことを考えてみるわけではない。社会生活(職場と家を行き来する日常生活)というものが、性行為のあけっぴろげさに反して、まるで対極的に、退屈に無表情に何事も無いかのように成り立っていることが、一種の不思議さとして感慨深いからだ。
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- 2009/07/09(木) 08:13:12|
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国民的人気アイドルに何があったのか。23日、公然わいせつの現行犯で逮捕された「SMAP」の草なぎ剛容疑者(34)は、多数のテレビのレギュラー番組をかけもちし、CMにも多数出演する超売れっ子だった。「さわやか」なイメージで売るキャラクターだっただけに、ファンらからは「残念」と失望の声がもれ、テレビ局やCM関係者はあわただしく対応に追われた。『何があったのか』も何もない。こういうニュースに対して「残念」とか「失望」とか感じる人というのは、いったい何を見て、どんな人生を送ってきたのだろう?
私は『国民的』と冠されるような枷(かせ)を背負ったアイドルが偶さか全裸で騒ぐのは当然だと思うし、それを「わいせつ」と呼ぶのは、彼に対して「失礼」を通り越して「侮辱」だと感じる。私はこの人物の人となりに、いささかの懐疑も抱かないばかりか、この人はかなり真っ当な人だと改めて感ずるばかりだ。何故そんなことがわからないのだろう?
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- 2009/04/23(木) 23:54:04|
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仕事量にはじっさい限界がある。しかし、限界をどこにするかは人それぞれで、その差は激しい。すこしばかりで、もう「いっぱいいっぱい」だと根を上げる人もいるし、過労死する人もいる。過労死する人を、昔は、要領が悪い人だと思っていたが、全然違う。逆である。過労死するような人に要領の悪い人はいない。要領の悪い人(仕事のできない人)は、仕事を与えられる前に干されるからだ。用無しばかりがふてぶてしい。
手帳を買うが、続いたことがない。牛革でもボロボロになる。システム手帳はデカ過ぎる。私は予定が多い。時間に追われる。何のために働くのか、わからない。最近、苦労しても、報われるとは、ちっとも思えなくなった。苦労すると報われるのは、昔のハナシかもしれない。といって、現実から逃れようとも思わない。そこまでの窮地には立たされていない。私が苦労しているのかどうか私自身としては何とも言えない。苦労したと自分で言える人は凄い。世の中にはもっと苦労した人がいるかもしれないのに。
その人のじっさいの仕事量と、自分が苦労したと思っているか、思っていないかは、その人の風格を形づくる。旧世代(私たちの親の世代)の人々は苦労話が大好きだった。戦争や貧困は都合のいい苦労話になる。しかし、我々がそれらに匹敵する苦労を背負っていないという証拠はどこにもない。両者の時代はあまりにも変わり過ぎているので比べようもないからだ。
今日日「これは戦争とは言えない」「これは貧困とは言えない」とは、旧世代の人々といえども断言できなくなってしまった。どう見ても、ここは戦争であり、貧困である。それでも自分が培ってきた経験を、若い人にアピールしなければならない時がある。大人とは悲劇だと思う。
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- 2009/04/09(木) 00:18:02|
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梶沢村の外れに「ミシマ」というラーメン店があって、時々私はそこへラーメンを食べに行く。私にはこれといった趣味が無いので、先月のゴルフ場のレストランスタッフのアルバイト面接でも、面接官の「ご趣味は?」の問いに明快な回答ができなかった。結局「趣味は?と聞かれるのが一番困るのですよ」などと笑って言葉を濁してしまったのだが「ラーメンです」とでも答えておけばよかったと、今になって思う。
「ミシマ」は梶沢村唯一のラーメン店ではあるが、客の来ないラーメン店である。「ミシマ」のラーメン旨いよね、なんて風評は終ぞ(ついぞ)聞いたことがないし、私が食べている時に客が入ってきたためしも無い。が、だからこそ私は「ミシマ」へ行くのである。私の飲食店の選択基準は空いているか混んでいるかであって、混んでいる店にはまず絶対に行かない。空いていれば味など二の次でいいのだ。私は一人で、誰にも邪魔されず、誰の目も気にすることなく食事を摂るのが好きだ。酒も一人で飲むほうがいい。無論、離婚した妻にも、かつての恋人にも、友人知人の類にもそんなことは打ち明けたことはない。今、君(達)と此処で食べて(飲んで)いるよりも、一人で飲んだり食べたりしたほうがずっと楽しい、などと、わざわざ人間関係を損ねるようなことを言うほど私も野暮ではない。しかし、そんな偏屈だからこそ、いずれ人は私から去っていくのだし、少なくとも結婚までした相手には予め知らせておくべきことだった、とは思う。
空いているから行くくらいだから「ミシマ」のラーメンはさして旨い訳ではない。私にもラーメンが旨いか、それほどでもないかぐらいは判別がつく。それでも不味いラーメンではない。得てして人は飲食店のことを平気で不味いとか旨いとか評価するが、文字通り不味い食べ物というものはよっぽど珍しいものである。不味い食べ物というのは、本来塩を入れるところを間違って砂糖を入れてしまったような物であって、そんな飲食店がそうそう転がっているはずもない。きっと飲食店というもの全般が極端な評価というものを免れえない商売なのだろうと思う。そもそも自分の味覚をして「これは不味い」と判断し公言できる人は凄いと私は思う。それは凄いことであるはずなのだが、そんな人がやたらいる。少なくとも食べたものの批評を全くしない人よりは圧倒的に多いはずである。「ミシマ」のラーメンは不味いほどでもないが、旨くはない。が、私にとってみれば旨くないことが一人で食事することの安寧(あんねい)に勝ることはない。いつでも空いている飲食店だからこそ「ミシマ」へ行くのであって「ミシマ」がもしハンバーガーショップだったら、当然ハンバーガーを食べるだろう。一人でする食事の内容にラーメンが圧倒的に多いのは、一人で行けるような飲食店というものがラーメン店くらいに限られているから、に過ぎない。
誰も来ない、相客の無い「ミシマ」は私にとって楽園のような場所である。おそらくそれは「趣味」と言っても過言ではないが、アルバイト面接でそれらのことを上手く説明することは難しい。私の趣味は直截に言えば「一人で食事すること」なのである。そのまま言えば、孤独が好きな人間と思われて職場に適さないと判断されるだけだろう。だから単純に「趣味はラーメンです」とでも回答しておけばよかったと思うのだ。おそらく面接官は「ほう。ラーメンね。どこのラーメンが好きですか?」と聞くだろうから、適当に有名なラーメン店を挙げておく。面接で趣味を尋ねるのは、大凡わかっている人物像を補おうとしているか、あるいは雑談から人物像を引き出そうとしているか、そんなところである。音楽鑑賞だろうと映画鑑賞だろうと、よっぽど偏屈な趣味でなければ何でもかまわないのだ。だからこそ面接で趣味なぞを尋ねるのがおかしいのだ。趣味というのは、私の解釈では人の持っている偏向とかフェチのことである。そういうことを就職しようとしている会社の面接官に、おいそれと打ち明けるはずがない。しかし残念ながらゴルフ場のレストランスタッフは採用にならなかった。面接結果の電話がかかってくるまで半日とかからなかった。私はおそらくゴルフ場のレストランスタッフに甚だしく向いていないのである。
「ミシマ」へはかなりの頻度で行っているが主人と親しいわけではない。だいたい顔もよく見たことはない。私はたといいきつけの店といえども、そこで働いている人と親しくなったりすることはない。人にはよく行く店に上客としてあつかってもらいたいという意識があるようだが、私にはそんなものはない。飲食店の主人と親交を深めるのが目的ではない。一人で誰にも気兼ねすることなく飯が食えればそれでいい。だいたい主人や従業員と親しくなれば一人で飯を食うという目的が果たされなくなってしまう。最近はコンビニで弁当やらおにぎりやらサンドイッチを買って食べるのが多くなった。時としてそんなものがやたら旨かったりする。私はずっと職を探しており、これまでにいくつもの会社から不採用の通知を受けている。本当のところラーメンを食べる余裕すら覚束ないのだが、「ミシマ」へは足が向く。誰にだって一つくらいは癒しの場所があっていい。
「ミシマ」で一番高いラーメンは「デラックスラーメン金閣」である。地味な店にしては大仰で大上段な名前である。『三島』ということで有名な文学作品と掛けたのだろう。唐突に出てくる「金閣」の所以(ゆえん)はそれくらいしか思いつかない。が、そのラーメンの名前以外は文学の「ぶ」の字も無い殺風景な店である。書棚に三島由紀夫作品が並んでいるのかと思えば、一冊も無い。鴨居に三島由紀夫のサインが飾ってあるわけでもない。勿論、生前に大作家が辺境のこのラーメン店を訪れた気配など微塵も無い。おそらく三島という苗字の主人が気まぐれにエイとばかりに名付けてしまっただけなのだろうが、三島由紀夫の「み」の字も金閣寺の「き」の字も無いラーメン店にあっては、それはそれは不気味に映える名前である。実際の「デラックスラーメン金閣」は、ごく普通の醤油ラーメンに金粉をまぶしてあるだけである。金粉をまぶしただけの只のラーメン「デラックスラーメン金閣」を、小汚なくて誰もいない「ミシマ」の店内ですするのは、ほかにたとえようもない物悲しさ、無意味さである。無味無臭の金粉。このキラキラした輝きはいったい誰の目を喜ばせようとしているのだろうかと考えると、なにやら深遠かつ不条理な気分になり、その気分は確かに「文学的」と言えなくもない。
「ミシマ」の店内に求人の貼り紙が貼られた。店頭ではなく、店内に貼られていたので客に宛てて求人をしているのだろうと私は解釈した。主人も愈々人が恋しくなったのかもしれないなどと思った。少なくとも人手が足りなくなったわけではない。客は一人、私しかいなかった。
と、いうわけで、私は今「ミシマ」でラーメンをつくっている。私が「ミシマ」で働き始めると主人は不意にどこかへいなくなってしまった。主人の顔さえ思い出せないが、ラーメンの作り方だけは教わった。私が主人となった「ミシマ」には今、一人だけ客が来る。私もいずれ彼に「ミシマ」を譲ろうと思う。
- 2009/03/28(土) 23:03:59|
- 創作
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仕事にはいろいろあるけれど、運動量の高い仕事は健康的にラッキーである。なぜなら、医者に「もっと運動をしたほうがいい」なんて指摘されないからだ。
仕事をはけてから高い年会費を払ってジムへ通う必要もないから、経済的にもラッキーだ。
原始の時代から、労働とは基本的には肉体の疲れを伴うべきものだと思う。因って肉体的に疲れる仕事というのは、人間として正統だと思う。肉体的にだけ疲れる(精神的には全く疲れない)仕事というのは、謂わば『天国』である。
誰しも、職場や自治体や消防団、活動拠点、常日頃従事している処、があるが、その外は広い広い世界である。すなわち私たちの活動の場は、狭い狭い「井の中の蛙」的世界である。人はそれを、かなりしょっちゅう、忘れる。
私はよく「顔が広いですねえ」と人をほめる。お世辞である。地域社会に生きていれば、そいつの社交性にかかわらず、とりあえず『顔』は広くなるものだ。地域社会では「色んな人を知っている」ことが、相当なステイタスになる。「顔広いね」が、お世辞になるのが地域社会である。しかしもちろん、世界中の誰一人知らなくても、根本的には何一つ困らない。
誰一人としてアナタのことを知らなければ、それはむしろ僥倖と言えるし、それは都市に住まうことの最終的な特権とも言える。
当然制約はあるけれど、私たちはそれぞれ自分の考えたやり方で生きている。今は個人主義の時代である。けれども集団の中で、あえて自己主張する必要は全く無い、と私は思う。進行を妨げ、(それがどんな他人であれ)他人に迷惑をかけるだけである。国歌斉唱に起立しなかった程度のことで世間様を騒がしてはいけない。文章や絵画や楽曲等々、誰にもない異能においてあなたの優れた才能が認められるのなら話は別だが、みんながそうしているのに、あなただけがそうしないのは、ただの我が儘か、無能であるがゆえの目立ちたがりだと私は思う。発言で自分を示すより、能力で自分を示すべきだと私は思う。近年「オンリーワン」がもてはやされたので、人々は「オンリーワン」が素晴らしいことだと思ってしまったのかもしれない。「オンリーワン」なんてぜんぜん素晴らしいことではない。人と同じことをするほうがずっと大変だし、むしろ偉い。
『毛唐の玉遊びに一喜一憂している暇はございません』とは、右翼アーチスト鳥肌実の科白である。毛唐の玉遊びというのは、野球とかサッカーとか、のことだ。私はこういう庶民的でない発言を心から愛する。民心はいつでも3SすなわちSEX、SPORTS、SCREENに向いている。結局、それぞれ自分の考えたやり方で生きているとは言いつつも、何かにコントロールされているのだと思う。
テーマ:ひとりごとのようなもの - ジャンル:日記
- 2009/03/20(金) 03:11:41|
- 創作格言
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お客様窓口とかコールセンターとかサポートセンターとかカスタマーサービスとかインフォメーションとか、そういった場所にいる人というのは、若い女性で、比較的きれいで、かつヘッドセットをしているものと相場が決まっている。
これは誰もが認めうる紋切り型のイメージである。世界中のインターネットサイトでCustomer service と言えば、笑顔でヘッドセットをつけた人のイメージが使われている。
これは地球上でもっとも使われている汎用イメージであろう。
じっさいにはお客様窓口係ともあろう人がそれらの汎用ビジネスイメージに代表されるような余裕にあふれた笑顔を終始浮かべていられる筈がない。またヘッドセットのような高価なものを備えるのは(中小を含む)多くの企業にとって大変なことである。よってその汎用ビジネスイメージとそのイメージが使われている企業の実際のお客様窓口係の姿というものは、天と地ほどもの隔たりがあるとみてまず間違いがない。
すなわち世界広しと言えどもこれほどまでに嘘くさいイメージはない。
企業は社会に誠実さをアピールしなければならないものだが、若い女性がヘッドセットをしているイメージはインターネットサイト上にごろごろ転がっている。それこそどんな企業でもこのイメージを使っている。
迂闊だと私は思う。
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- 2009/03/07(土) 15:54:59|
- 未分類
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「夢中になれるものがあるってさ、スゴイじゃん」というのは夏帆主演の映画「うた魂♪」で岩田さゆりが言うセリフだが、ところで、いわゆるゲームオタクとかゲーマーなどと称されたり自称する人達に愛用されては困る美徳の一つに「夢中になれるものがあるのは素晴らしい」というのがある。夢中になることは確かに場合によっては素晴らしいが、その対象が何でもいいわけはない。無論ゲームがいいわけはない。快楽的なことに夢中になるのが素晴らしいことであるなら、世の中、秩序など無いも同然だ。
夢中になって素晴らしいのは、禁欲的な努力なくしては続けたり成し遂げたり出来ないことであって、ゲームを何万時間やろうが、あなたの為人に何ら良い影響を及ぼさないのは、疑いもない真実である。タバコのパッケージには、あなたの健康を害する恐れがあると書かれていて、これは科学的な真実なわけだが、ゲームのパッケージには何も注意が書かれていない。このゲームに費やされるであろう時間はあなたの人生にとって無為である。そのように記載すべきだと思う。
成功者の多くが「好きなことをやってきただけ」という言い方を使うので、ますます混乱する。ひょっとしたらおれもこのまま好きなことをやり続けていていいのかもしれない……そういう勘違いが起こる。ニュアンスが違う。ニュアンスが違うだけなのだが、天と地ほどの差がある。「好きなこと」は、決して楽しくて快楽的なことではない。
ブログなんかで嬉嬉として自分のオタク的趣味を披瀝している人がいる。これは言うなれば、あなたのオナニー動画をネット公開しているようなものだ。それがどんな趣味であろうと、あなたの趣味には何ら罪はないけれども、趣味には品位というものがある。その趣味が他人様に披露できるものか、隠しておくべきものかを解するのは、ニュアンスを解するか否かの問題なのだが、今日日(きょうび)その辺りのことについて、人々は悉く(ことごとく)無頓着である。
一部の獣は自慰を教えると死ぬまでやるらしい。
「夢中になれるものがあるってさ、スゴイじゃん」
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- 2009/01/31(土) 21:24:47|
- 未分類
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府知事は、東京で報道陣の取材に対し、「朝日がなくなれば世の中のためになる」と発言した。前日には、陸上自衛隊の式典に出席し、祝辞で「口ばかりで人の悪口ばかり言っている朝日のような大人が増えれば、日本はだめになる」と批判した。
「朝日がなくなれば世の中のためになる」それは間違いなくホントにそのとおりだ、と思う。
ところで、朝日というのは朝の日のことである、と思う。
- 2009/01/28(水) 06:54:46|
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そもそも同級会になど出たくないのだが、とある事情があって、私は毎回出席しなければならないのである。
同級会に出る度に私はつくづく身分不相応な高校を卒業したものだと感じる。だいたい同級生は有名大学を卒業し、企業に就職し、幸福な結婚をして、沢山子供をつくって、順当に昇進しているので、まぶしくて仕方がない。私は拗ねているわけでも、世に背を向けて生きているわけでもないのだが、人並みの幸福とは違う方向へ足が向くことがあるようだ。同級生と比べて身分が低いはずはないのだが同級会に居て身分不相応としか言いようのないものを感じる。ひょっとしたらほんとに身分が低いのかもしれない。
同級会の近況報告では、誰もがひとしなみに「みんな変わってないなあ」という感想を述べていたが、私は一人「みんな年老いたなあ」と感じていた。男なんかバカにしていたような同級の女性は、遠目にはこってり若作りをしていたが、お酌に側へ寄ると、化粧のぶあつさが判る、そのぶあつい化粧でも隠しきれない深い皺が見える。そんなものを見ると結構こたえる。もちろんこっちだって同様に禿げたり腹が出ていたりだが、同情というか、哀愁というか、恐怖というか、率直に「老い」というものを感じる。この先もっともっと老いて醜くなる、醜くなるのに体裁へのこだわりは変わらない、いったいどうなってしまうのだろう? そんな「老い」に対する漠然とした恐怖。
ホテルのウェイターをしていた頃から、微妙に手が震える。ワインを注げなくなって、ウェイターを断念した。ワインを注ぐのにウェイターの手が震えていたらヘンだ。今では飲み会でお酌をするときにも震える。なので私はお酌をするときはいつも必要以上に瓶を震わせて「アル中なんだ」と言って笑いをとる。近しい者との飲み会でなければ両手でお酌をする。それが理由でお酌はあまりしないので不遜な奴と思われることがあるかもしれない。
「なんであんなバカなことを言ったんだろう」飲み会が明けた翌朝にそう思うことが私は多い。同級会のように、邂逅とお酒が絡んだ時は特にそうだ。ぐるぐるとその後悔を反芻する。なぜ何度もそんなことを思い出すのか自分でもわからない。人があっさりと忘れる類の些末的なことを私は何度でも思い出す。自意識過剰とか、そんなふうなものかもしれないが、自分ではどうすることもできない。
正月はずっと眠っている。12月31日まで仕事だったし明けて1月2日から仕事が始まるので1月1日は貴重な休日である。次の休日は1か月後か2ヶ月後かわからない。だから正月は眠っている。年末年始にあっちやこっちへ移動することほど煩わしいことはない。明けて出勤すると紅白で歌手の誰々がどうだったとか、そういう夢みたいな話を誰かがしている。
独身貴族という言葉があるが、結婚歴がクリアな独身のときは貴族ではなかった。親や周囲の人間から耳に蛸ができるほど「結婚しろ」と言われ続けてきたからだ。人によって環境は違う。40になって結婚歴がないのに、誰からも「結婚しろ」なんて言われない人もじっさい山ほどいる。私は違った。毎日「結婚しろ」と言われた。そういうストレスは貴族のものではない。だから結婚歴がクリアな独身の時分は所謂「独身貴族」ではなかったのである。離婚してほんとの独身貴族になった。今や私は誰にも「結婚しろ」なんて言われない。もしかするとこの立場を手に入れる目的で結婚したのかもしれない。一度結婚して失敗すれば「結婚しろ」なんて言われなくなるだろう。『貴方』にとっては大変迷惑な話だが、そんな打算が私のどこかにあったと思う。
同級会の近況報告は真っ先に私が話した。偶然だが助かった。私は手短に笑いをとっただけだが他の皆は家族構成や家庭内の苦労話などが報告の中心だった。みんなファミリーマンだった。終わりのほうの順番だったら、私はファミリーマンでないことを報告し、リコンしたことの報告もしなければならないハメに陥っただろう。「No Family Man」なんて、この嵐吹き荒ぶ世ではちっとも珍しくはないのだが、私の同級会では確実に珍しいのである。
だいぶ昔に気づいたことだが、人には、独りが寂しい人と独りが寂しくない人の2種類の人がいるが、そのことは人間の「強さ」とは全く関係がない。すなわち、ひとりが寂しくないという人は、人間として「強い」から寂しくないのではない、ということである。私は独りが少しも寂しくはないが、人間として「強い」わけではない、と思う。ところで、人間として「強い」か、あるいは「弱い」かということを、いったいどのように判別し得るのか、という問題がある。私にとって人間社会は「人間として強いか弱いかがどのように判別されるのか」という疑問に常に打ち震えているようなものだ。もっとわかりやすく言えば、人間社会は、私にとって自分の「弱さ」が、いつどんな場面で露呈されてしまうのかという恐怖に常に打ち震えているようなものだ。
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- 2009/01/03(土) 17:15:53|
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山岸のじいさんが茹でた虎の話をしてくれた。
ぼくはむかし、インドだかタイだかの話で、虎が木の周りをぐるぐる回っているうちに溶けてホットケーキになった話は知っていた。それこそ、おやつのたびにその話を思い出した。虎は黄色に黒の縞が入っている。すごいきれいで格好いい。そんなのがすごいスピードでぐるぐる回転したら、それこそホットケーキになるのも無理はないように思われた。
でも山岸のじいさんの話は茹でた虎の話だった。じいさんはもう昔から生きている人だし、虎を食べなければいけない時もあったのだろうと想像した。さいきんぼくもコンビニへ行くと煮物みたいな惣菜なんかに無性に興味をそそられる。こんな家でできるようなもの食べてどうするんだろう、とか思う。もちろん、300円では買えないから買わないが、そんなものを買うハメになった自分のことを、たびたび想像してみることがある。年をとるというのは、たぶん、隣のコインランドリーでパンツとかシャツとかを洗っているあいだに、コンビニの惣菜を買って帰ることなのだろうと思う。木島君はもうそんな生活をやっているし、僕だって遠い未来の話だとは思わない。因みにおやつ代の300円は姉さんが会うたびにぼくにくれるものだ。姉さんというのはぼくの母さんの妹だ。そう呼んでほしいというので姉さんと呼んでいる。いい女だと思うけど子供のあつかいは下手糞だと思う。子供のぼくに、キラキラとした人という印象を残そうとしているのがありありで、しらじらしい。もっともそんな大人は沢山いる。別にめんどうな人でないからいいんだけど。
めんどうな人といったらやっぱり母さんのバイト先の店長だろう。山岸のじいさんもめんどうな時があるけれど、放っておけるからまだましだ。母さんのバイト先に谷川さんという男がいて、そいつは店長である。谷川さんはうちの母さんとおまんこしたくてしたくて仕方がないという店長さんである。そういう大人の性欲が、ぼくの世代にはぜんぜんわかんないだろうと思っているのか、ろこつにぼくに母さんのことを聞いてくる。といっても、いちばん聞くのは父さんが会社に居る時間とか、そういう現実的な情報ばかりだ。あんまり攻勢がはげしいので、母さんも少しなびいていて、カラオケならもう2度行っている。個室だからおっぱいもんだりとかしたかもしれない。おかげでさいきんますます接近してくるようになった。鼻息が荒いというのはこういうのを言うんだろう。そんなだからぼくも木島君みたいに自分で惣菜買って帰る生活もすぐだろうなあ、と思うのだ。
木島君は皆川沿いの県住に住んでいる。木島君にしてみれば県営住宅をそうやって2文字に略すのが自慢みたいな感じだった。父さんはあの辺はガラの悪い連中ばっかりだからあんまり行くなと言うが、じっさいには「ガラの悪い連中」なんかいない。朝早く出かけて夜眠りに帰ってくるだけの低所得者層の人たちばかりだから、ぼくが遊んでいる時間帯にはベビーカーを押す女性しか見当たらない。あんな安全な遊び場所もないもんだ。山岸のじいさんもその団地にいる。たいてい猫目の公園のベンチに腰掛けている。一日中そうしている。猫目というのは猫だらけの公園で、晩になると猫の目が蛍のように光るからそんな名がついた、というのがじいさんの説明だった。蛍なんて見たことはないから、暗闇の公園で想像してみたけれど、蛍は突然跳躍したり、夜半に赤ん坊のような声で鳴いたりしないだろう。もっともほんとはその公園には名前も通称もない。みすぼらしい公園だからぼくと山岸のじいさんのほかは誰も来ない。
山岸のじいさんというのは背中に名前と住所が書いた布が縫い付けてある老人だ。そこに山岸と書いてあるので山岸のじいさんと呼んでいる。茹でた虎の話をしようと言うので聞いていたら公園の名前の話だった。虎なんて茹でないし、虎なんていないし、いたって茹でやしない。たぶん山岸のじいさんのアルツハイマーもいよいよぐるぐる回ってきたのだろうと思う。そういやぼくのおなかもぐるぐる言っている。もう帰ろうかな。公園で2晩明かして身体じゅうがむずかゆい。父さんが出張へ行くと谷川さんが家に来る。そうなると色々めんどうなのでぼくとしては家にいたくない。そんな話を山岸のじいさんにしたら涙をぽろぽろ流して感動された。木島君なんてほんとは友達じゃない。でもじいさんはぼくの友達だと思う。

- 2008/11/06(木) 22:26:28|
- 創作
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歯科医の待合室に52型のデジタルハイビジョンテレビが据えられている。私はテレビを見ない人なので、テレビを見るのは全時間のうち文字通りそこだけである。したがって歯科にかかっていない時は全く見ない。テレビを見ないのは無いからで、無いのは見ないからである。特に理由もない。テレビを低俗と思っているわけではない。テレビを見ない人がテレビを見る人より高尚だと考えているわけでもない。まったく見ないのはむしろ社会性に欠ける態度である。だから私はテレビを見ないなどと他人様に明かしたことはない。テレビ番組の話題など、まるでそれを見たかのように簡単に合わせることができるものだ。
それはともかく。モニターの背面を見るとブラウン管を構成するあの難儀なでっぱりが無い。大画面なのに嘘のように薄い。画面は夢のように明るく鮮明である。歌を歌う女性シンガーの顔の毛穴までも見える。鼻の頭にうっすらと浮かんだ細かい汗の玉が一粒一粒見える。まつげの一本一本も、丁寧に描きこんだ眉も、伏し目になるたびにまぶたでテラテラと光る微妙なアイシャドーの輝きも、アングルを落とした時の鼻の穴の暗い空洞も、唇の端で微かに光った唾液も、マイクと口のあいだでチラチラと煌く(きらめく)飛沫までも、総てが見える。これはテレビではないような気がする。こんなにもの凄い再現能力の機械を、所謂「テレビ」として日常的に見るということは、何か恐ろしい。
一般人の顔は、デジタルハイビジョンテレビの画面に映し出される、という準備がないので、手入れが行き届いていない。ビリー・ワイルダーが「お熱いのがお好き」をカラーでなく白黒としたのは、トニー・カーティスとジャック・レモンの女装を、どぎつく見せないようにするためである。デジタルハイビジョンテレビにそのような配慮はない。キレイに手入れをした芸能人の顔でなく、一般人を映した場合、そこに恋人や夫や妻にしか見えなかったものが晒される。それがこれからの「テレビ」だと思う。
テーマ:TV - ジャンル:テレビ・ラジオ
- 2008/10/26(日) 18:51:57|
- 未分類
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子供の頃、夏休みの自由研究というのがあった。研究対象を決め、模造紙にタイトルを書き文や写真やイラストを載せる。今でも覚えているのは、近所の総合病院の子供、佐藤君(仮名)の作品『こーらではがとけるけんきゅう』である。『コーラで歯が溶ける研究』の内容は、抜けた親知らずをコーラの中に入れ、その歯がどうなっていくか、毎日観察した、というものだった。親知らずが抜けたことと「コーラを飲み過ぎると歯がとけるぞ」と親に注意されたのが研究のきっかけである。コーラを毎日新しく入れ替えたという記述があり、それを「もったいない」と指摘した記憶がある。なにせ親があまり子供にコーラを飲ませなかった。コーラ(のような甘いジュース類)は身体に悪いものである、という認識を持たせたかったからであろうし、また、自由な買い食いをいましめる意図もあってのことだったろう。だからコーラの値段などせいぜい80円(当時)程度だったに違いないが、子供にとってコーラは非日常的なご馳走に属する飲み物だった訳である。
佐藤君の親知らずは日に日に小さくなっていった。コーラが含有しているなんらかの成分が歯を溶けさせたに違いない。が、化学的分析が為されている訳ではないので、具体的なところはわからない。ただ、毎日、コーラから歯を取り出し、目で観察して「小さくなった」とか「穴があいてきた」とか、そういう皮相の変化を言葉少なに記しているだけである。そしてそれを毎日写真に撮った。デジカメが無かった時代の話である。接写ができるような気の利いたカメラも無かったのだろう。模造紙には一見何だかわからない写真が一面に貼ってあった。近づいて見ると、それらの写真の一枚一枚に、小さな欠片(かけら)のようなものが写っているのが認められる。タイトルや研究内容を知ってはじめてその欠片が佐藤君の歯であることがわかる。
当時の夏休みは現在ほど長期ではなかったが、それでも20日くらいはあった。模造紙に20枚近くの写真が貼ってあるのは佐藤君の研究だけだった。それだけ多くの写真を駆使しているのは、ただ、文章を書くのが面倒だったからというだけに違いない。できる限り端折りたい(はしょりたい)という粗雑さが、模造紙全体からも感じ取れた。が、そんなどうでもいいような物を執拗に撮って見せていることで、佐藤君自身が全く意図していなかったところの「一種のシュールさ」としか言いようのないものが『こーらではがとけるけんきゅう』には、あった。しかも、この研究は何らかの有機的な結論すら無かった。模造紙の末尾には「こーらではが小さくなることがわかったのでははやねへなげました」と書かれていただけである。
コーラで歯が小さくなることが判り歯を屋根へ投げた、というのは、昔は(子供の頃は)歯(下の親知らず)が抜けると屋根へ向かって投げる、という習わしだったからである。
コーラに溶け小さくなった歯を風習にしたがって屋根へ投げる、その途轍(とてつ)もない無意味さが、この研究の「一種のシュールさ」を一層引き立てていた。
総合病院の院長のご子息である佐藤君は当然大金持ちに属する子供だった。確かに写真をやたらに貼ってくるような、物量を投入してくるやり方に、無邪気な金持ちらしさも感じられた。それでも結局、佐藤君の『こーらではがとけるけんきゅう』は誰からも注目されなかった。私は何故か今でも覚えている。
日常生活で途轍もなく無意味だと感じられる事象に度々出くわす。が、それには「一種のシュールさ」なんて微塵(みじん)も感じられない。途轍もなく無意味な事は、現実世界では、やはり途轍もなく無意味なままである。
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- 2008/10/25(土) 20:43:52|
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腕を組んで、彼とデッキを歩いて行くと一斉に人々の視線を浴びた。
私達は、若く、美しく、彼は乗客のうちでも指折りの富豪で、しかも二人は婚約したばかりだった。羨望や感嘆を全身に感じて夢心地になりながら、私はしっかりと彼の腕を抱きしめた。涼しい宵闇に海は穏やかに凪ぎ、潮風も私達を祝福しているかのように頬をやさしく撫でる。次々に彼の知人や取り巻きが、前途有望な私達を囲み、私を紹介してくれと彼にせがむ。そのひとりひとりに彼は私をフィアンセと紹介し、揃いの指輪を掲げて見せると、そのたび溜息とも歓声ともしれない声があがる。彼はもはや人目をはばかる様子もなく私を引き寄せ額や頬に接吻し、紹介したばかりの人物の秘密についてそっと耳打ちしたりした。
デッキでの晩餐会。私達は賓客として、舳先に近い席をあてがわれていた。船長のシャンパンサーベルにどっと湧き、楽団の演奏が始まり祝宴になると、彼は私に目配せをした。何かやりたいことがあるようだ。私の疑問符顔に促されて彼はちょっと恥ずかしげに打ち明けた。
「舳先に立って潮風を全身に浴びながら両手を広げて目をつぶると空を飛んでいるような感覚になるんだ、やってみないかい? 」
どうやら彼はレオとケイトをやりたいらしい。私はすっかりうれしくなって彼を抱きしめた。
二人は賑やかな晩餐をくぐるようにして舳先へ進んだ。快いそよ風に髪がなびく。舳先に立つと、視界には水平線と、キラキラと宝石のような星々が今にも降ってきそうに輝いている。背後の彼に従って手を広げ目をつぶると、彼の言う通り、本当に空を飛んでいるようだ。いいしれない幸福感にひたる私の耳元に、彼はささやいた。
「ボクを信じるかい? 」
「ええ信じるわ」
と、その刹那、どん!と背中に衝撃を感じたと思うや、私は真っ逆さまに漆黒の海に突き落とされた。
幽霊になった私は伝説になり、やがてひとつの教訓を世間の淑女に伝えることになる。その教訓とは……
「舳先に立ってタイタニックの真似事をする時は必ず背後をとりなさい」
どん!
- 2008/10/17(金) 04:03:37|
- 創作
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忙しさの先にあるものを時々考える。
忙しい。でも今日が終わってなんとなくホッとする。
明日も終わってホッとするだろう。
一週間をなんとか過ごし、一ヶ月をなんとか過ごすだろう。
一年が経ち、ああ、あれからもう一年か、と思うだろう。
アッというまに10年が過ぎる。あれからもう10年。「へえ10年か、早いもんだな」と思うだろう。
そうやって20年過ぎる、30年過ぎる。
40年経ち、50年が経過する。
節目はすぐにやってくる。
忙しい忙しいと追われながら過ごすうちにどんどん年老いてゆく。
でも、ただなんとなく過ごしてきた、という訳でもないし。一瞬一瞬すべてじゃないけれど、一瞬一瞬のうちのいくつかは、ある程度頑張ってきた、と思われる。でも時間は徒に(いたずらに)過ぎるし、私は何も成し遂げていないし。何を成し遂げるのかもわからないし。
結婚すれば、妻がいる、ということになる。かもしれない。
子供を生めば子供の成長という成果が残る。に違いない。
でも、忙しさは私自身やあなた自身に何も残さない。忙しさというのはただ忙しいだけだ。私やあなたの成長や成果には繋がっていない。それでも忙しさは追ってくる。明日はやらなきゃならないことが山ほどある。それをやらなければ世界が崩壊するわけじゃないけれど、きっと、やらないきゃいけないことはやらなきゃいけないに違いない。大人だし。明日やらないと上司や同僚が迷惑するだろう。明後日もやらないと仕事は溜まって、上役に報告されるだろう。明々後日もやらないと友人は心配し、親や兄弟姉妹が何事かとざわつき始めるだろう。弥の明後日の晩に、それ以上の不義理に精神がもたなくなって、何とか気持ちを取り直して、いろいろな人たちに謝りに行く、ということになる。忙しいのにますます忙しくなる。なにやってんだ私は。ということになる。
結局、何一つ捨て切れなかった私は、凡人だな。と思う。
無軌道に生きて有名になった人の伝記なんか見てると、ひょっとしたら奴ら、どっか足りないだけじゃないのか、と思う。
大人で、世間があって、すべてが順序通り回っているのに、ドロップアウトできるなんて並みの神経じゃないよ、と思う。
忙しさの先にあるのは「死」だと思う。荘厳な「死」ではなくて、ただの「死」である。一応、大人のルールに従って生きたので、親族や縁者が篤く葬るのかもしれない。でも実際にはただ難儀なだけかもしれない。その法要の座興にこんな話が出てくる。
「そういやウン十年前、あいつ、三日も無断欠勤しやがってよ。四日目の晩に謝りに来やがった」
語り種(かたりぐさ)というやつだ。三日の無断欠勤が私の人生の総てだったのだ。どこかへ彷徨して、そのまま行方知れずになったほうがよっぽど潔かったし、迷惑もかけなかった、のかもしれない。
忙しさの先にあるのはそんな「死」である。
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- 2008/10/05(日) 00:06:56|
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若い経営者たちの交流会(パーティー)があった。場所が場所だったので、缶ビールに菓子類中心だったが、出席していた人たちは皆まぎれもない「勝ち組」の人たちだった。
スナック菓子のなかにナビスコのコーンチップというものがあった。円筒に入ったなじみぶかいチップなのだが、サルサソースが入っていて、つけて食べる。珍しかったので私は思わず出席者の(経営者の)ひとりに
「へえ、さいきんのスナック菓子はスゴいですねえ。チップにつけるソースが入っている」
と言ってしまった。言われた人が怪訝なカオをしたので、直ぐにマズいことを言ったと悟った。
「えっ、知らないの? 木村佳乃がコマーシャルやってるじゃん」
木村佳乃は勿論知っているが、私はここ5年ほどTVを見ていない。また、ここ5年ほどスナック菓子というものを食べていない。私の情報源は新聞とWEBとレンタルショップで借りてくる映画だけだった。
「え? いや、もちろん知っていますよ。でもこんな感じで入っていたとはねえ」
私は誤魔化した。もとよりどうでもよい類の会話でもあったし、相手の怪訝なカオが消えたので私はホッとした。
私は主催者側、兼、配達員、兼、配膳係だった。テーブルを配置したのも、缶ビールを並べたのも、紙皿に菓子類を盛ったのも私だった。が、パーティーではそんなことをひとつもしなかったかのように鷹揚に振る舞った。まるで経営者のように、まるで大人物のように。名刺も交換したし、笑いもとった。
短時間のパーティーでもあり粗飯ということもあって、皆少しだけしか食べず、結局(菓子類が)大量に余った。
私は1人だけ残ってパーティー会場の後片付けをした。山ほど残ったサルサソースを集め、アパートに持ち帰り、タッパに入れ、冷蔵庫へしまった。こんどライスタコスでもやってみよう。と、思っている。
あの経営者連中、パーティーの出席者でもあった私がスナック菓子の付録のサルサソースの残りをかき集めて持ち帰ったなんて、絶対思わないのだろうな。
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- 2008/09/26(金) 11:43:55|
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携帯電話に着信があって、その時たまたま自分が独りで静かなところに居た場合、テレビとかオーディオとかラジオとか何かしらの音源のスイッチを入れて、周りに音がある状態にしてから着信に応える、という人がいた。
この行動の理由が解らなかったのだが、最近になって解った。携帯電話での会話において、周りがシ〜ンとした静かなところに自分がいることが相手に知られてしまうと、相手は「こいつは孤独で寂しいヤツだ」と見なして哀れむかもしれない……それを警戒する、という理由だった。
世の中には色んなことを考えている人がいるものだ。
私の個人的観点からすると、自分が人様に「孤独で寂しいヤツ」と思われたり、見なされたりするのは、大歓迎である。そう思われることによって、狭い地域社会の日常生活において、人様から(嫌われはしないものの)敬遠されたり解放されたりすることは、願ってもない幸福である。と本気で思う。
小さな社会では、一定の社会性や社交性を認知されつつも、相手に「コイツあんまりフレンドリーなヤツじゃないな」と思わせておく工夫は(少なくとも私にとっては)とても重要である。そう思わせておかないと、例えば、行きたくもない飲み会に毎度誘われてしまう。
ハリウッドの寵児、ハワード・ヒューズ(あるいはハワード・ホークスだったかもしれない)がハリウッド進出をはたしたイギリスの気鋭の映画作家、アルフレッド・ヒッチコックを自邸でのパーティーに招待した際、ヒッチコックの人物についてこんな感想を残したという逸話が残っている。
「いいヤツだがパーティーに呼びたくなるようなヤツじゃない」
映画オタクのヒッチコックにとっては、ハリウッドのどんちゃん騒ぎのパーティーに出るより、独りで映画のことを考えたり構想を練っていることのほうがよっぽど楽しいに違いない。
すなわちこの発言はヒッチコックの人嫌いを象徴するような皮肉をもって世に知られているのだが、ヒッチコック当人にとってみれば願ったりな人物像だったであろう。人々がヒッチコックを「人嫌い」だと認めれば、面倒な対人手続きをまるごと回避できるからだ。
武田鉄矢が『思い出というものは、その時、傍ら(かたわら)に居た仲間をともなって思い出されるものだ、独りで居た時の思い出というものはあり得ない』というようなことを言っていたが、私はそうは思わない。私は独りで体験したことを、繰り返し、思い出として思い出す。
『独り』は世間一般的には、哀れむべき寂しいこととされているが、私にはそれが『寂しい』という認識が無い。
ただ世間一般がそれを寂しいことだと定義しているので、独りではないような、仲間が大勢いるような、体(てい)を繕って(つくろって)いるだけだ。(例えばヒッチコックのような)才能が無いのなら、ゆめゆめ『世間一般の定義』に逆らうべきではない。結局そういうことなのだろう。
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- 2008/09/25(木) 01:14:10|
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名古屋でメーカーのセールスマンをしていた頃、先輩の一人が、ある時ソッと自分は酒屋の長男であると打ち明けた。酒屋を継ぐのが嫌で名古屋へ出てサラリーマンをやっている、とのことだった。先輩のアパートで、何度かふたりで一緒に飲んだことがあった。冷蔵庫のビールの在庫が常に豊富な人だった。由緒ありそうな磨りガラス瓶の酒が、間取り1Kの台所に無造作に置かれていた。酒屋だと聞いて、なるほどと合点がいった。
ある人は酒屋の長男として生まれる。が、酒屋が嫌いで、都会へ出て勉強するフリをしつつ大学を卒業し、そのまま東京や大阪や名古屋の企業へ就職する。会社員になって、しばらく家業から逃げ続ける。酒屋を継ぐのが嫌だった。酒屋なんてカッコ悪いと思った。どうしても嫌だった。
きっとどこにでもあるハナシだろう。
生まれた時、私たちの人生はだいたい決定する。酒屋の長男なら酒屋を継がなければならない。公家の娘に生まれれば皇室に魅入られる可能性もある。生まれながらにして親がもっていた病に感染していることもある。産油国の王の息子に生まれ、一生を放蕩と遊芸に費やすこともある。Etcetc
個人。英語でいうpersonの語源は、ラテン語のペルソナから来ている。ペルソナとは「仮面」という意味だ。「仮面」とは「真実を隠すためのみせかけ」の意である。なるほど、人は確かに、良かれ悪しかれ、多かれ少なかれ「仮面」を背負って(しょって)生きている。
私もあなたも、あなたの親も、またその親も、とびきりランダムに生まれる。
ラーメン屋、テロリスト、牛乳配達員、葬儀屋、総理大臣、石材加工店、AV女優、アルコール中毒治療中患者、エンジニア、登山家。およそ、想像もできない人間のムスコやムスメとして生まれる。そして
たいていの場合、もって生まれた(家柄とか経済状況とか生業とか時代背景とか国の主義とか望まれて生まれてきたか又はそうでないか等々の)環境に逆らうことは容易なことではない。また、もって生まれた環境に逆らって自分の思い通りのことをするのが、必ずしも、立派だったり正解だったりする訳でもない。嫌々ながらにせよ、親から受け継ぐべき(職)業を受け継ぐ。嫌々ながら受け継いだのだが、月日の経過に次第次第に感化され、興味を持ち、受け継いだ業に熱心に打ち込むに至る。類型的だが、それが普通でそれが最も幸福と見なされる。そういうものだ。
その(職)業を親から受け継いだのは、あなたが何十億という人類のなかで、最も、その(職)業に適していたからという訳ではない。そこに生まれ出たからそうなったのだ。
結局「運命」だったのだ、ということになる。すなわち、結局「仮面」に過ぎなかったのだ、ということにもなる。でも誰も、受け継いでやり遂げた人の人生の今際の際(いまわのきわ)に「結局「仮面」だったんじゃないのか? もっと適した場所や業があったんじゃないのか? 」などとは言わない。
梨園の世界に生まれた、團十郎や染五郎や菊之助や藤十郎や三津五郎、そういった人々は結婚して子供を産み二世に稽古をつけるけれども、それが息子でなくて、どこかの山猿であっても、朝な夕な稽古をつけられれば、どのみち歌舞伎役者になるに違いない。素質にかかわらず、品性にかかわらず、梨園の世界に染まるだろう。「血は争えない」などというが、欺瞞というものだ。血は充分に争える。
近所の床屋は志ん朝に惚れていて、散髪のあいだじゅうずっと志ん朝のCDを流している。彼が誓願寺にあと100キロばかり近くに生まれていれば、本当に落語家になっていたかもしれない。演芸を諦めて理容専門学校を選んだ青春時代があったのだ。と思う。いったい誰が「人はもって生まれた属性に影響されない」ということを証明できるだろう?
言うまでもないが、我々が背負って(しょって)いる「仮面」とはもって生まれた環境などの属性を言う。理不尽きわまりない属性である。時々、ソレを理由に人殺しをするキチガイもいる。生涯ソレを恨みながら死んでいく人もたくさんいる。
この「仮面」の決定的な弱点は「取り替えられない」というところにある。仮面を背負ったらその仮面は一生外せない。一生外せないので「じゃあ来世に託そう」というハナシになる。
となると、おい、まてよ、来世に希望を託すったって、まだこの(今世の)「仮面」の先は長いじゃないか。俺は明日頓死するわけじゃないんだぞ。まだずっと先までこの「仮面」背負ってアレもコレもやんなきゃなんないんだぞ……
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- 2008/09/15(月) 13:40:02|
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西日本では「ほんとのところ」とか「ぶっちゃけ」とか「じっさいもんだい」とか、本当のことを打ち明ける話の冠に「しょうみなはなし」(正味な話)という言葉を使う事(又は所)がある。他地方の私にとっては魅力的な響きのコトバである。
名古屋で営業職をしていた頃、先輩は「正味な話」を冠するのが口癖だった。口癖なので正味な話がじっさいあまり正味な話ではなかったりはしたが。
最近、汚染されている米をバラまいた会社が注目されているけれども、あるいは、同類の悪質または偽りの食品を輸入したり卸したり売ったりした食品会社の話が再三世の中の注目を集めるけれども、あるいは地球環境の悪化を憂える団体が日常生活に取り入れることの出来る些細なエコロジーを訴えるけれども、どれもこれも
結局、正味な話(しょうみなはなし)人間が、安全かつ健康的かつクリーンなものばかり食べて、長生きしてしまうのがいちばん国家的地球的に困るでしょうに。我々全員が、まだ動ける(働ける)うちに頓死するのなら、いったいどれだけアフリカのジャングルが延命するだろう? いったいどれだけ地球は長生きできるだろう? 正味な話。
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- 2008/09/10(水) 23:52:47|
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仕事で、日常生活で、ときどき名前を読み間違えて、又は書き間違えて、ムッとされたり、叱られる事がある。
名前を読み間違えられたり、書き間違えられて、そのことで怒りを感じる人間は、その社会性に重大な欠陥あり、とみなして間違いない。
私は生まれてこのかた、自分の名前を正しく読まれたことが無い。それもそのはず、読めないような非-常用の読みを用いているからだ。
アナタの名前を読まざるを得ない、また書かざるを得ない人間は、アナタの80年の生涯の間に、何十、何百、何千とあらわれるだろう。その度にアナタがその間違いに怒りを感じるのなら、アナタは自分の名前に対する不屈の自尊心の持ち主と言えるのかもしれないが、その怒りは社会にとって、又アナタ自身にとって、一銭の価値もないことを覚えておくべきだ。
アナタはアナタのナマエを読み上げた、または書いたどこかの誰かにとって、完全なるアカの他人に過ぎない。そのようなアカの他人に自分の名前を正しく扱ってもらおうとするのは、甚だ(はなはだ)不遜というものだ。
なぜアカの他人がアナタの名前(の正しい読みや書き)を知っていなければならないだろう?
なぜ名前を間違えられた程度の軽微なことで、その誰かと対立の構図にならなければならないだろう?
アナタだって私だって誰にも知られていない一般人に過ぎないではないか。
勿論、そんな時(読み間違えて又は書き間違えて叱られた時)は「おまえの名前なんか知るかよ」と言いたいのをこらえ「失礼しました」と謝るのだが、内心「こいつはバカだ」と、心底、思う。
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- 2008/08/22(金) 23:50:59|
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蕎麦が好きだ。蕎麦が好きな人は多い。そのぶん講釈をたれる人も多い。それぞれ一家言あって、ワインのようでもある。自分では認めない蕎麦について、たとえば「あんなのは蕎麦じゃない」と言ったりする。私も、東京で蕎麦を食べたりすると「こんなのは蕎麦じゃない」と思うことがある。都心の蕎麦はバカみたいに高い。ウソみたいに(量が)すくない。一掬いするともうお終い。そのほんのちょっとを高級懐石料理みたいな雰囲気で食わせる。
庶民の食いものにそういう権威を着せてはいけない。しかし小麦ほどではないにせよ、そば粉の値段が上がっているのは確かだ。知人のやっている一等好きな蕎麦屋では中国産そば粉を使っている。国産は高い。といって国産でなければ蕎麦が不味いわけではない。
儲かっている製造業の社長、蕎麦好きが高じて蕎麦屋を開店した。専用畑を所有し栽培から一貫してこだわりの蕎麦屋、いわば道楽だから利益もあまり出なくてかまわない。おそらくみんな持ち出しなのだろう。蕎麦は確かに旨いが、東京ほどではないにせよ値段が高い。量も少ない。
蕎麦はその食べ方からして、速く食べられる。速く食べられるのだから、量が少ないのは致命的である、と私は思う。蕎麦なんて600グラムくらい平気で食べられる。食べようと思えば1キロだっていけるだろう。それでもおなかにもたれない。そんな量があってなんぼという食べ物を、高級懐石料理みたいに気取ってほんの180グラムだけ出す蕎麦屋がいかに愚の骨頂かお分かり頂けるだろうか? 旨い不味い以前の問題である。
蕎麦は腰(歯応え)も大切だが、父は腰の強い蕎麦について「こんなんじゃ年寄りが食えない」とよく言う。腰は確かに大切だが、蕎麦なんて年寄りも食べるのだから「はもろい」蕎麦があったっていい、よくそんなことを言う。
「はもろい」とは「歯脆い」とでも書くのだろうか? 辞書には無いが、やわらかい食感をあらわしているのがよくわかる言葉である。
父は歯も健常で、年寄りというほどでもないのだが、蕎麦好きで、永年蕎麦を食べるうちに、腰の強い歯応えのある蕎麦に飽きてしまったのかもしれない。
茹でてから時間が経てば全ての蕎麦は「はもろく」変わる。同時に蕎麦として値打ちも無くなる。茹で過ぎも同じだ。それでも、蕎麦は「はもろい」のがいい、なんて言うのは、むしろ蕎麦通な感じがする。
電車通勤をしていた頃、既に茹でてある乾麺を湯どおしするだけの立ち食い蕎麦屋へちょくちょく行った。そんなものがやたら旨かった。
たいていの蕎麦好きは自分が一番蕎麦に精通していると信じている。そば粉が何割とか、つなぎには何がいいだとか、そういうとめどもないことを語り出されることがある。私も蕎麦好きを自認しているので、父にならって、蕎麦は「はもろい」のがいいですね、などと語るが、たいていは取り合ってもらえない。本当は、蕎麦なら、乾麺だろうがつなぎに山芋やら卵やらを使っていようが、又たとい茹でたてで無かろうとも、量がいっぱいあるだけで幸せだ。
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- 2008/08/07(木) 21:58:59|
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